ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

100歳まで生きたいと願う人の数は意外と少ない

 2011年10月15日の朝日新聞では、「100歳まで生きたいと思う?」という題でアンケート調査を行なった結果を公表しています。4,144人が回答を寄せました。全体的にみると、「はい」と答えた人は35パーセント、残り65パーセントが「いいえ」でした。
 私はこの題から五分五分と予想していたので、100歳まで生きたくない人の割合が結構多いのにびっくりしました。この記事を書いた朝日の記者も「少し寂しくなってしまいました」と言っています。
 80代の人々がわりに肯定的で前向きな姿勢を示しています、それでも100歳まではとてもと思っている人々は、その世代の半数だそうです。それが80歳以下になると、長寿を否定的に考える人々の割合がぐっと増えるようです。70代、60代は「介護」の真っ最中で、食事から排泄までいろいろ苦労を重ねているので、自分はああまでして長生きしたくないと感じているのでしょう。さらに医療の発展によりいたずらな延命措置がとられ、身体中に張り巡らされた管で身動き出来ず、苦しんでいる親を目撃した人なら、なおさらそう思うでしょう。
 私の介護体験では、訪問看護士さんの徹底した指導を受けていたので、ベッドの移動とか排泄介助であまり苦労はしませんでした。しかし亡くなるまでの3年間、夕方になると幻覚症状が出て来るので当惑し続けました。89歳で召される直前食事の介助で大失敗をし、以後寝たきりになったので、その後後悔ばかりしています。でも40年にわたる見守りと介護から解放され、生活は年金が3万以下で非常に苦しいものの、こうして聖書を読み、ブログを書き、資格取得の勉強に精を出したりしていると、自由になったことの実感が湧いて来ます。母がもしあと10年も生きていたらそんな世的な楽しみもなく一生を終えただろうなどと考えると、何か複雑な気持ちになります。天で再会の希望はありますが。
 実は聖書ではノアの洪水以前人々は何百歳も生きていましたし、それだけの環境も整っていたのでしょうが、逆に人々の「心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く」という、深刻な事態に陥りました。そこで主である神はこう言われました。
 「人の齢は、百二十年にしよう」(創世6:3)と。
 近頃100歳の誕生日を迎えた聖路加病院の日野原先生は相変わらず元気で、手帳にはあと20年先までのスケジュールが詰まっているそうですが、たぶんこの聖書箇所に従い、それ以上は望まないでしょう。

 また詩90:10にはこうあります。
 「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです」。
 これが聖書の標準的な教えです。70歳までは虚弱であっても保つでしょう。しかし健康で大病一つした事のない人も、せいぜい元気でいられるのは80歳代までという事になります。私は大病しているので、このみことば通り70歳代で天に召される事を切に望み、祈っています。
 先のブログで「隠喩としての病い」を書いたスーザン・ソンタグの事に触れましたが、彼女は血液のがんと戦いながら、71歳の生涯を終える頃、どうしても長生きしたい、死を受け入れる事が出来ないと、もだえ苦しみながら亡くなったそうです(息子が『死の海を泳いで スーザン・ソンタグ最期の日々』という本の中でそんなふうに書いています)。確かに思想家としての彼女、もっと生きていたらと思う事はあります。でも伝道者の書にあるように、各自に「死ぬ時」があります。これはどのように抗おうと打ち克つ事が出来ないのです。
 アンケート結果を見ながら、100歳までは生きたくないというのは、案外皆の考えている「本音」かも知れません。大事なのは詩90:3を見ながら、今から死の備えをしておく事ではありませんか。