ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

原発と一神教との類似について

 既にブログの書評で取り上げた『大津波原発』の中で、もう一つ考えさせられた重要な事があります。鼎談での発端となる発言は、「原子力と『神』」の章においてやはり中沢新一氏がしています。
 まず中沢氏はヴァラニャック著『エネルギーの征服』を引用し、火を利用しての技術に始まる第一次革命から進み、現在は1942年を分水嶺とし、原子力とコンピューターの技術による第七次革命の時代である事を指摘した上で、それが今までのものと決定的に構造が異なる点は、生態圏の完全に外にあるエネルギー源を取りだそうとした事を強調しています。続けて…。
 「それが大量生産と大量消費による経済成長をもとめる産業界」と結び付き、「ひとつの盲目的なイデオロギーを形成してきた」と明快に述べています。
 ちなみにイデオロギーの意味をネットのコトバンクにある知恵蔵最新版から引いておきます。「政治や社会のあるべき姿についての理念の体系をイデオロギーと呼ぶ…イデオロギーに帰依した人間は純粋でかたくなな行動をとることから、イデオロギー宗教にたとえられるイデオロギーに縛られた人は、そのイデオロギーを、標榜する国家や組織が犯した悪や失敗を認めようとしないという傾向がある。その点で、イデオロギーには虚偽意識(真実を覆い隠す呪文)という側面もある」(北大の山口二郎氏執筆。赤字は私によります)。
 原発信奉は単一化を目指すイデオロギーを形成するという点で、それは一神教の思考法の変形版となります。日本人の最も苦手な発想法です。なぜなら日本は伝統的に八百万の神信奉だからです。端的には「神仏混交」。それで歴史の浅さと相俟って原発利用の専門的技術を発展させる事が出来ませんでした。
 そこで内田氏が応えて、「荒ぶる神」(原発)に出会うと、「とりあえずそれを既知のなにかとくっつけて「神的なもの」と、「ちょっとだけ神的なもの」のアマルガム(合金)を、日本の原発関係者が形成して来た事を補足指摘しています。これぞ神仏習合
 一神教の世界では「荒ぶる神」(キリスト教では主である神)対処の為に、神官を揃え、儀礼を作り、聖典を整備して、「鬼神を敬して之を遠ざく」専門知識が整っていました(キリスト教では、モーセを通して神が幕屋を計画し、旧約聖書の啓示を賦与し、アロンとその子孫の祭司が保管して礼拝儀式を行ない、民に教えていました)。この「荒ぶる神」は生態圏外に存在し、怒るとそれを壊してしまいます。福島第一原発の爆発した施設に消防車で水をかけるなんて事で、その怒りが収まるわけもありません。持ち合わせているもので、現状を切り抜けようとしました!
 しかし原発周辺はやたらに人々が近づけない聖域となっています。モーセに現れた神の場合、「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である」(出エジプト3:4)と言われました。ちなみにインドではその原発シヴァ神」を模倣した形になっているそうです。かくて聖域に入れる人々以外には正確な情報が伝わらず、取り返しのつかない大惨事が生じました。
 この章の最後で中沢氏は、東電関係者らがこの荒ぶる一神教の神(原発)を聖域に配置しながら、それを包囲し制御する体系を持たず、神仏習合の形でごく自然に「安全です」「クリーンです」とだけやみくもに宣伝したところに、思想的ないや「神学的な」大問題があった事を指摘しています。お見事!