ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

返事はくれるのが公平だという正義の妄想を離れる事

 2011年12月15日の朝日新聞に、月読寺・正現寺(浄土真宗系)住職小池龍之介さんが「催促に駆り立てる『正義』の妄想」という題で文章を綴っています。

 連載記事なので前にもブログで取り上げた事があります(2011年10月23日)。なかなか味わい深く考えさせるテーマで話しています。東大教養学部で西洋哲学を専攻した「変わり種」です。
 今回はパソコンや携帯でメールを送った相手が返事をくれないという事に関してでした。私にも緊急のメールを発信したのに、返事が来ないという事で多少ともいらいらした経験があります。携帯の普及でよくメールする人なら、必ず経験する事ではないでしょうか。
 それを小池さんは次のように展開しています。メールを出して返事が来ない、だから待ちきれずにさらに督促のメールを送ってしまうという行為、「こんな見苦しい催促行為へと私たちを駆り立てる煩悩は何なのか」という事で、それを分析しています。「私は労力を払って連絡したのだから、相手はその労力をいたわって返事を返すべきだ。でなければ、私だけが一方的に労を払うことになり不公平である」という考えがその人にあるのです。ものごとは公平に、釣り合いがとれてなきゃ気が済まないという思いが付き纏います。その「脅迫観念」こそ「正義」だと小池さんは喝破します。その正義の英語の語幹「just]は天秤の釣り合いなので、人の脳は釣り合いの取れなさに不協和を感じてイライラするものなのだという事です。なるほどなと感心しました。
 それはメールばかりでなく、「愛」でも適用出来ます。「自分が愛しているのだから相手も愛してくれてないとおかしい」といった「正義感」です。
 ですから小池さんは結論として、脳の不協和にイライラしているだけだと、ハッと気づく、そして「返事はくれるのが公平だ」という正義の妄想から離れれば、ゆったり気長に“待つ能力”が育ちますと言っています。私もだいたいその境地です。
 ところで聖書の神は勿論「正義」が属性ですが、上で触れた「愛」もまた重要な属性です。それはギリシャ語で「アガペーの愛」と呼ばれるものです。神が愛に価しない罪人である私たちに対して、一方的に差し出される愛です。見返りを求めない愛です。それが具体化されたのが、最愛の御子イエス・キリストを十字架に付けられた犠牲的な愛です。
 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)。
 「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためである…」(マタイ20:28)。
 ですから神は全ての人を愛し、その福音を発しておられますが、罪深い人はそれにすぐ返答するどころか逆に背反しています。それでも神は「あなたがたに対して忍耐深くあられる」(ペテロ第二3:9)のです。私たちのように相手の返事を待てないという方ではありません。
 小池さんが話された事、多くの人が感じていると思うので取り上げてみました。