ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

小池龍之介氏の「正義が招くネット上のイジメ」を考える

 小池氏は朝日新聞の夕刊で「心を保つお稽古」と題したコラムを連載しています。2012年1月5日に取り上げたのが上記「正義が招くネット上のイジメ」です。
 荻上チキという若い評論家が『ウエブ炎上』という本を書いた時、私はその意味が分かりませんでした。副題に「ネット群衆の暴走…」とあって、だいたいこういう事かと理解するようになったのは最近です。つまりブログの小さな記事に対して、大量のコメントが殺到する現象であると。それも概して攻撃的意見が集中する暴走行為のようなものだと。
 小池氏はそれに触れています。「政治家や芸能人らのちょっとした失言や問題が露見しますと、しばしばネット上では、“祭り”と呼ばれる大騒ぎとなり、皆が寄ってたかって、有名人をボコボコにバッシングするようです。多いときには、数万件もの発言が一挙に連鎖していくそうです」。
 その内容の中で書いた人に対するきつい言葉が飛び出して来るわけです。「こんなヤツに生きる資格なんてない。死ね」とか「…実はクズだった」というように。
 そして小池氏は「こうして口汚くののしることができるのは、『自分は悪い人間を追いつめる、正しい側に立っているのだ!』という大義名分が得られるからでしょう」と分析しています。それはれっきとした卑怯な「イジメ」行為です。そしてさらに小池氏は、ブロガーに悪を見つけると、「正義の使者となったつもりになれるだけに、イジメの快感へのストッパーが外れてしまう」と言っています。これは「正鵠を射た」考察ではないでしょうか。
 でもその後です。そうした「快感〜!!」は刹那的なものに過ぎず、その心はすぐに虚しくなります。小池氏は「クサクサした気分が残るのみ」ですから、「正義感ゆえにかえって醜悪な小悪人になってしまうのだなあ」という「反面教師的な教訓を引き出し…」、それから離れれば幸いであるというニュアンスで締めくくっています。
 それを聖書の観点から見れば、「救いのない無自覚な罪人が行なう醜悪な罪の行為」と言えるでしょう。有名なイエス・キリストの登場場面があります。
 「律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、イエスに言った。『先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか』」(ヨハネ8:3−5)。
 この自分を正義とする律法学者らに対して、イエスはこう言われました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」(同8:7)。
 偽善者たちの心を射抜くこのイエスの鋭いみことばで、姦淫の女の周囲にいた大勢の者たちは、自己の正義に根拠のない事を悟り、ひとりまたひとりと去って行き、イエスだけが残ったのです。神であり救い主であるイエス・キリストだけが、罪のない「義」なる方だからです。
 そしてイエスは姦淫の女に対して「わたしもあなたを罪に定めない。今からは決して罪を犯してはなりません」と宣言されました。
 こうして姦淫の女に非難の視線を浴びせた「炎上者」は、少なくも良心の痛みを感じて退場し、女は悔い改めてイエスを信じたのでした。
 私たちには聖書によってその事が良く分かりますが、小池さんが対象にした炎上者たちは、自己の鏡とすべき基準がありませんから、「醜悪な小悪人」の立場を捨てる事はあまりないでしょう。また次の目標を狙っているに違いありません。残念な事ですが、これが「罪」の恐ろしさなのです。