ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

大災害を水に流し忘却してしまう日本人

 2012年1月10日の朝日新聞に「憎まない だが忘れない」という題の記事がありました。何だか医者である鎌田實氏の「がんばらないけど あきらめない」を真似したような題です。
 ここで記者は昨年3月11日に起きた東日本大震災及び大増税に反対する若者たちが、渋谷の大通りをデモした事に触れています。その参加者30名、昨年9月19日に明治公園でおよそ6万人が参加して行なったデモに比べると、寂しい限りです。
 このデモで渋谷の街頭を見渡した事務局長は、「いつまでそんなこと言ってるの」といった冷たい視線を感じています。私はそれよりずっと前、電車の回数券を買う為に北千住駅で降りた時、既に大勢の若者たちが、駅前で訴えている人々の言葉に、全く関心ないといった表情を見せていたのを覚えています。
 その震災から10ヶ月を迎えたわけですが、日本を根本的に揺るがし、放射能汚染と情報操作等々で日本中を怒らせたのに、その気持ちが長続きしません。
 そうした日本人の忘れっぽさの理由の一つとして、記者はこんな事を言っています。「日本人は怒りや憎しみを、見えないところへと流して、やり過ごしてきた。新年の神事は、旧年の悪を払うため。ひな祭りも、その元となった流しびなは、厄や穢れを人形に移し、水に流す行事だ」と。
 ここで新年の神事とは、冒頭にある栃木足利の大岩山毘沙門天最勝寺に古くから伝わっている「悪口(あくたい)まつり」を指しているのでしょう。参加者が「ばかやろー」と悪口を叫びつつ山道を登り、その思いを思う存分吐き出して、新しい年を迎えようという事だそうです。
 聖書には英語の「オブリヴィオン」(=忘却)という言葉は出て来ないものの、注解書を読んでいると頻繁に出くわすので、その意味を覚えたばかりです。同時に昔福永武彦氏の小説を濫読していた時期、その中に「忘却の河」という作品があったなあという事も思い出していました。
 私にはあの大震災どうしても忘れ去る事が出来ません。とりわけ原発事故です。私たち東京人は福島の犠牲の上に豊富な電力を享受していた加害者です。ですからそれを償う為に、一体何が出来るのかずっと考え続けて来ました。中学のクラス会でも南相馬市いわき市の友人を呼んで、話に耳を傾けました。特に南相馬市は悲惨な状況で、いつも穏やかなその友人が胸の内に大きな怒りを抱いているのが分かりました。何か手伝いたいのに、まだ来てもらってもやる事がないというのも聞きました。車無し、金無し、体力無しの私に一体何が出来るのか自問自答しているうち、結局現段階では忘れない為勉強した事を、ブログで発信するしかないのだと悟りました。ですから大方の人々のように募る怒りを忘却の河に流す事なんて出来ません。
 記事では過去に、日本をはじめ、韓国や米国やアラブ世界で生じた大きな悪の出来事を記していますが、それらに対する憎しみや復讐心は或る程度薄まっても、基本的には「忘れない」という思いが貫かれている事を指摘しています。
 では聖書の神はどうなのでしょうか。
 私たちはアダムの子孫として「罪」というものを受け継いでいます。神は聖なる方ですからこの罪の問題が解決しない限り、その怒りが罪人に注がれており、「忘却」はあり得ません。一人の敬虔な民は「主よ。どうかひどく怒らないでください。いつまでも、咎を覚えないでください」(イザヤ64:9)と哀願しています。その罪人と神との間の隔ての壁は、罪人の「罪」を全て十字架で負って死んで下さった救い主イエス・キリストによって崩されました。
 その救い主への信仰により、初めて神と人との間の和解が可能になりました。それゆえ神はこう宣言されます。
 「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」(イザヤ43:25)。
 「わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さない」(ヘブル8:12)。
 私たち罪人でかつて恐ろしい罪を犯して来た者でも、この救い主への信仰の一点だけで、神はその罪を全て拭い去り、一切思い出さないと言われるのです。
 そこに世の人々とは全く違った神の姿勢が現れています。信徒になってからも然り。私たちはやはり罪を犯します。でも今度はそれを言い表すという方法により、私たちは不断にきよめられます。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(ヨハネ第一1:9)。告白を忘れても天国で末席に連なる事が出来ます。
 残念ながら信徒でないとその罪はいつまでも覚えられています。神の怒りにご破算がないのは世の人々と同じである事を銘記したいものです。