ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

室生寺に一人佇む河野裕子さん

 歌人河野裕子さんの事を思い出したのは、2012年3月1日の朝日夕刊に載った記事によってでした。
 私は永田和宏さんが河野さんのご主人である事は、うかつにも知りませんでした。永田さんも歌人で、細胞生物学者の顔も持っています。
 二人は1967年京都の大学生だった時に、歌会で出会いました。互いに終始変らぬ愛を持って、歌を紡いで来たのでしょう。その姿を見て、息子の淳さんも娘の紅さんも歌人になりました。この二人の生活に終止符を打ったのは、河野さんの乳がんの他臓器転移によるがん死でした。即ち2010年8月、64歳の生涯を閉じた時でした。

 永田さんが2000年〜2010年までの河野さんの随筆を編集し、出版したのが『わたしはここよ』でした。図書館で借りて読みました。この本で河野さんの死をみつめる生活があらわになっています。勿論この1冊だけでその全てが分かるなどとは言いませんが、読後感がなぜか淋しいというか、虚しいと言うか、そういう気持ちが広がり、もう他に借りまいと決心し、私の感想を若干述べておきます。
 冒頭2000年の書き出し部分で、河野さん(53歳の終わり近く)は、人間を含む生物は「必ずいつか死ななければならない」と書いています。そしてそれから僅か7ヶ月後に乳がんが見つかりましたが、既に悪性で手術適応となりました。
 その告知の後、車での帰宅途中「涙があふれてしかたなかった」とあります。でも車越しに見える光景はいつもと違って輝いています。それに気づかなかった自分が悲しかったと言っていますが、次には「かなしい以上に生きたいと思った」と書いています。
 手術は「成功」しましたが、何しろ悪性だった事もあり、河野さんは以後まるで変ってしまった身体の、誰にも訴えられない苦しみと共に、「癌の転移、再発の不安」という心の苦しみを抱えて生きてゆきます。でも河野さんは最期まで歌を書き連ねて行く決意をし、断固実行して来ました。
 「泣いてゐるひまはあらずも一首でも書き得るかぎりは書き写しゆく」
 「病気をするまでのわたしには、死はひとごとであり、遠いものであった。しかし、今のわたしは、一日一日が愛おしい」。「生きている喜びが身にしみる」。だから短歌を書く気力が与えられたのです。
 河野さんの転移の不安は9年後に現実となり、しばらく茫然と過ごす日々が続きました。でもまだ歩く事は出来ました。そこで死の6ヶ月前、ご主人の永田さんと共に室生寺を再訪しました。その急な石段を永田さんの支えでやっと上り、金堂まで辿りつきました。釈迦如来像の前で掌をあわせ瞑目します。「祈る…祈ることだけがすべてではないか」。


 河野さんはそれから数日して、また室生寺を訪れました。今度は単独で。「今、この年齢になってみて、病を背負い、誰にも何者にも縋っても救われないわたしは、ただただ祈るためだけに室生寺を再び訪れた。平安を得たかと言えばそれは嘘になる」。ですから…。
 「みほとけに縋りてはならずみほとけは祈るものなりひとり徒歩来し」。
 そして死の前日、ご主人の見守る中で最期の一首。「手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」。
 イエス・キリストはこう言われました。
 「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか」(ヨハネ11:25,26)。
 私たちの同情心など知れたものですが、キリストの場合は「私たちの弱さに同情できない方ではありません…」(ヘブル4:15)とあるように、人間とは比較にならない同情心、憐れみの気落ちを抱いておられました。
 ですからこのヨハネ伝の箇所で大勢の人々がラザロの死で泣き悲しんでいるのを見て、「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ」「涙を流された」のです(ヨハネ11:33,35)。ご自身に縋る者の悲しみはそのままで終わらず、永遠のいのちの賜物を得て大いに慰められるのに、人々は分かっていない…。
 そのキリスト御自身が父なる神に祈りを捧げ聞かれました。
 「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました」(ヘブル5:7)。
 主の祈りは三日目に甦られた事で成就しました。従ってその模範に従う私たち信徒の祈りも聞かれます。現世の命の増し加えの例もありますが、天で召された時に成就する祈りもあります。とにかくその一点で河野さんとの違いが顕著になりました。