ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

再び歌人永田和宏氏と妻故河野裕子氏について

 2012年8月14日の朝日新聞夕刊に、「僕を憎み愛した妻・河野裕子」という題の小さな欄がありました。これは2010年に河野氏ががんで亡くなった後、夫の永田氏が手記と歌集を出版した事で、記者が書いたものです。
 内容を読んで、そこに私の想像を絶する二人の間の「地獄のような日々」があった事を知りました。
 そもそもこの二人の馴れ初めですが、河野氏(私と同い年)は昭和41年、京都女子大学国文科に入学し、同じ年に京都大学理学部に進んだ永田和宏氏と短歌同人誌の歌会で知り合いました。昭和42年の事でした(http://blog.livedoor.jp/maturika3691/archives/3947606.html)。
 そして二人は結婚し、河野氏は二人の子どもを育てた後、2000年に乳がんが見つかり手術、8年後に再発し、間もなく亡くなりました。その間の事は私もブログで触れました(http://d.hatena.ne.jp/hatehei666/20120310/1331373729)。
 私はずっと独身なので(母親の闘病に付き合い、そういう機会に恵まれませんでした)、恋愛結婚した夫婦の心の機微などは、通っている教会の複数の夫妻に話を伺う他はなかなか分かりません。
 それで永田氏の最近の2冊の本『歌に私は泣くだらう』(手記)、『夏・二〇一〇』(歌集)を読んだ記者は、そこに全く意外な事を発見しました。

 この二人「夫婦愛」、「家族のきずな」、「歌人としての見事な最期」により、多くの人が哀れみ、理想的な夫婦として称えて来ました。
 しかし記者がこの本で見たのは、手術後の河野氏の心の変調でした。手術から再発までの間、河野氏が「激しい怒りの発作」に見舞われる事になったのです。再発への不安、体の不調で処方してもらった薬の副作用もあって、二人の間に「地獄のような」日々が続いたそうです。
 河野氏は些細なきっかけで、「延々と何時間も」永田氏を罵り続けました。時には夜中に包丁を持ち出して迫ってきた事もあったそうです。さらに絶望した河野氏は自殺も考えました。赤裸々な短歌が紹介されています。
 「この人を 殺してわれも 死ぬべしと 幾たび思ひ 幾たびを泣きし」
 永田氏はこうした彼女の激しい怒りに何のすべもなく、ただ寄り添い、共に泣き、黙してそれを受け止める他ありませんでした。河野氏は怒る自分と、決して罵り返さない永田氏を顧みてこう短歌を記しました。
 「あの時の 壊れたわたしを 抱きしめて あなたは泣いた 泣くより無くて」
 永田氏はずっとその怒りの理由を考えて来たそうです。そしてこう書いています。「あの頃、河野は本気でぼくを憎んでいた。憎みながら、誰よりも愛していた。そして一番心配していたのは、置いていくぼくのことやったと」。
 そして永田氏は「この人が女房だったことを改めて誇らしく思う」と締めくくります。
 人は死ぬかもしれないという最大の試練に直面して、やり場のない怒りを投げかけます。
 死生学を提唱して来た上智大学名誉教授のアルフォンス・デーケン氏は、「悲しみと同時に不当な苦しみを負わされたという激しい怒りが生じます…なぜ私だけがこんな不幸に見舞われるのかという不当感がつきまとい、自分にひどい仕打ちを与えた運命や神に対する怒りに駆られることが多いのです」と言っています」(『死とどう向き合うか』)。
 平素から死をタブー化し、神に背馳した生活を送っている人が、突然死に直面すると、愛する人や神に怒りをぶつけます。これが「罪」の恐ろしいところです。神はその人を愛し、その人の救いを待ち望んでおられるのに、人は苦しい時だけ恨みを抱くのです。この不合理さ。
 ところで私がもっとその心情を知りたいと願っているのは、永田氏の上記の言葉「河野は本気でぼくを憎んでいた。憎みながら、誰よりも愛していた」という二律背反の問題です。
 聖書にもあります。ダビデの子アムノンは、同じダビデの子アブシャロムの妹タマルを愛しました。そしてついに凌辱してしまいました。その後ですが「アムノンは、ひどい憎しみにかられて、彼女をきらった。その憎しみは、彼が抱いた恋よりもひどかった…」(サムエル第二13:15)とあります。
 これが独身である私にいま一つ分かりにくい箇所です。このような修羅場を経験した事のある方、是非その心理を教えて下さい。