ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

両国探訪2

 既に両国探訪1で書きましたが、両国駅南口から直ぐのところにある回向院を次にまっすぐ東のほうへ歩いてゆくと、そこに何とあの播州赤穂藩浅野家三代目浅野内匠頭が刃傷に及んだ吉良上野介の邸宅があります。

写真の右側に立つ石碑に「赤穂義士遺蹟 吉良邸跡」と書かれています。そしてその邸宅の奥行は意外に狭く、この写真の奥の植木までです。正面左の戸口から自由に入る事が出来ます。
 100平方メートルほどのこじんまりした庭に吉良上野介義公の座っている像が立っています。あまり迫真的ではありませんでした。

 この邸宅ですが、昔は8,400平方メートルもあったそうで、壁にその見取り図が貼ってありました。各護衛の武士たちが寝泊りしていました。相当広かったので、ネットの情報では当日150人以上もいたそうです。
 そして討ち入りで犠牲になった武士たちの名前を刻んだ石碑もありました。吉良家家臣二十士と書かれており、右上の筆頭に有名な小林平八郎の名前がありました。左隣が清水一学です。私は幼い時に映画やテレビで赤穂浪士討ち入りの光景を見ましたが、特に目立ったのがこの小林平八郎と、橋の上で二刀を構えた清水一学の名前くらいしか覚えていません。しかしそれが事実だったかどうか分かりません。

 この邸宅内にも吉良の首を洗ったとされる首洗いの井戸がありました。1703年1月30日深夜の事だったとあります。それから四十七士は凱旋すべく一旦回向院に向かいました(両国1のブログで取上げました)。しかしそこでは拒否されたので、高輪の泉岳寺に向かったのでした。
 この泉岳寺既にmatsukento様が訪問されました(http://d.hatena.ne.jp/matsukento/20120207/1328567814)。私も近く田町か品川から歩いて泉岳寺まで行ってみる積りです。
 この吉良上野介と四十七士との関係は「仇討ち」でした。聖書ではどんな記事があるでしょうか。復讐という言葉で調べますと、幾つかの事例があります。
 「あるいは、敵意をもって人を手で打って死なせるなら、その打った者は必ず殺されなければならない。彼は殺人者である。その血の復讐をする者は、彼と出会ったときに、その殺人者を殺してもよい」(民数35:21)。
 しかし同じ民数記には、あやまって人を殺してしまった場合の規定もあります。その人は特別な逃れの町に逃げ込めば、復讐者から保護されました。
 「あなたがたは町々を定めなさい。それをあなたがたのために、のがれの町とし、あやまって人を打ち殺した殺人者がそこにのがれることができるようにしなければならない」(民数35:11)。
 でも聖書の神は旧新約を通し、復讐するのは私の仕事であると言っておられます。
 「諸国の民よ。御民のために喜び歌え。主が、ご自分のしもべの血のかたきを討ち、ご自分の仇に復讐をなし、ご自分の民の地の贖いをされるから」(申命32:43)。
 「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる』」(ローマ12:19)。
 現在私たち信徒に求められているのは、復讐心ではなく、愛をもって他人を赦す事です。復讐は主に任せるという事です。なかなか難しいですが。