ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

反骨の人小林圭二氏

 2012年9月20日の朝日新聞夕刊に、小出京大助教と共に「熊取6人衆」の一人である小林圭二氏が、「ニッポン人脈記 石をうがつ13」で登場していました。題は「隠れた事実 拾い集めて」というものでした。

 小林氏は1939年生まれ,京都大学工学部原子核工学科を卒業し、原子炉実験所助手として勤務し、講師にはなったものの、2003年に定年退職しています。助手として最初は原子力発電の実用化を推進する立場で研究していたそうですが、やがて原発批判派に転じました。
 ちなみに京大では1968年に京大闘争が始まると、小林氏より1年後に生まれ、やはり京大を卒業して助手となった滝田修氏らが活動し大いに盛り上がったので(私も滝田氏が書いた書物はよく読みました)、小林氏も京大全共闘の影響を多少受けたのではないかと思っています。
 推定理由は小林氏が言うように、学生時代の友人、知人の多くが原子力村の住人となった事が挙げられます。彼らは良心が麻痺しており、一個の研究者としての責任を鋭く問う全共闘の追及には馬耳東風として受け流し、原発推進の立場で就職して行きました。しかし小林氏は良心的研究者として、彼らの根源的な問いかけには真摯に受け止めていたのではないかと、勝手な推測をしているわけです。ですから大学卒業後研究は継続させたものの、原子力村の仲間には加わらなかったのでしょう。
 小林氏が助手時代の1995年に、高速増殖炉もんじゅの冷却材として使われているナトリウム漏洩事故が発生しました。もんじゅは1983年に工事が始まりましたが、この危険性を訴える福井県の住民が、2年後の1985年に訴訟を起こしました。しかしこの原告団を支える放射能の専門家がなかなか見つかりません。そこで小林氏は請われてこの原告団に入りました。その為上記大学時代の友人らとは一切関係を断ちました。彼らとの交際は自分の立場も悪くすると考えての事です。1990年頃の事です。
 これは真に辛い決断だったでしょう。その選択は研究者としての将来が断たれる事になるばかりでなく、原子村の仲間との直接的対峙となるからです。朝日記事にあるように、おそらく相当逡巡したのではないかと思います。しかし最後には「研究者として責任がある」と腹を決めました。熊取の小出裕章助教らが応援してくれたのは言うまでもないでしょう。
 「 暴虐の者をうらやむな。そのすべての道を選ぶな」(箴言3:31)。
 早速小林氏は裁判の為の資料蒐集の為奔走しました。「世界中の文献に当たり続けた。東京の国会図書館にも、夜行バスで交通費を倹約しながら通った」とあるほど精力的に動き、裁判に臨みました。しかし一審では1998年に原告側の請求が棄却されました。
 2000年原告団名古屋高裁に控訴しました。そして2003年、各地の原発訴訟としては初めて原告側住民の勝訴となりました。しかし被告側の控訴により、2005年に「安全審査の対象となる大枠の基本設計は不合理とはいえない」という最高裁裁決で原告側の敗訴が確定してしまいました。小林氏としてもさぞ残念だったでしょう。しかし氏はこう言います。「あの高裁判決は、年を重ねるごとに私の心の支えになっている」。
 ですから小林氏は地道な市民活動にも積極的に関わっています。今年6月の大飯原発再稼働反対抗議では、そのゲート前で座り込んでいます。「道は遠いが、いつか扉は開く』。その通りだと思います。ヨハネ伝のヨハネはこう言っています。
 「イエスご自身が、『預言者は自分の故郷では尊ばれない』と証言しておられたからである」(ヨハネ4:44)。
 イエスと同様、小林氏も自分の故郷(原子力村のかつての友人たち等)では嫌われました。さらに聖書のみことばがあります。
 「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタイ7:7)。
 勿論これは求道者に対してのみことばですが、反原発に心を留めている小林氏にも適用出来るでしょう。頑張れ小林さん!