河合弘之弁護士の生き様
「あなたは、長い旅に疲れても、「あきらめた」とは言わなかった。あなたは元気を回復し、弱らなかった」(イザヤ57:10)。
2015年10月4日の東京新聞の「あの人に迫る』欄では、宿谷記者が弁護士河合弘之氏にインタヴューを試みていました。
画像はhttps://www.cataloghouse.co.jp/yomimono/genpatsu/kawai/からお借りし、一部変更。
9月23日の「さようなら原発さようなら戦争」集会のリレートークで、初めて河合弁護士の演説を聞きました。
開口一番「原発の事なら何でも私に訊いてくれ」。河合氏は東大の法学部を出た人でいわば文系、それが理系の原発について、何でも訊いてくれと言われるからには、余程の事情があった事になります。
それはつまり弁護士として、これまで20年以上原発闘争に関わって来たからです。その科学的知識の基礎習得は、故高木仁三郎氏と出会い、その弟子入りしてからです。1994年の事でした。
しかし実際電力会社を相手取った訴訟は、ビジネス弁護士の時代とは比較にならないほど困難を極めました。それは「敵」である電力会社等を主体とする「原子力ムラ」の、膨大な資金力による「安全安心キャンペーン」と、それとの密接な繋がりがある多くの御用学者たちの為でした。
そうした中3・11が起こり、安全神話は崩れました。国民も裁判官も驚愕しました。でも東電勝俣素会長らは動じませんでした。河合氏は東大卓球部で彼の後輩でしたが、事故より3年前の年賀状のやり取りでは、原発廃止の訴えに対して、勝俣は「原子力ルネッサンス」とだけ書いて来たそうです。それほど原発推進の推進力は強固で、現在は全く事故前の状態に戻ってしまっています。
それで河合氏は3・11以後全国の原発訴訟の弁護士と連帯し、情報を共有しないと対等に戦えないと考え、「脱原発弁護団全国連絡会」を立ち上げました。それをネット上で共有し、互いに切磋琢磨しながら、運転差し止め訴訟に臨みました。
やはり1977年の東大公開自主講座出席が契機で、原発訴訟に取り組む決意をした海渡雄一弁護士との出会いは大きな意味を持ちました。二人は原発事故前、福島第一原発3号機のMOX燃料に関する訴訟で惜敗しましたが、これが河合氏の手がけた訴訟では最初のものとなりました。
2014年5月21日。「主文1 被告は、別紙原告目録1記載の各原告(大飯原発から250キロメートル圏内に居住する166名)に対する関係で、福井県大飯郡おおい町大島1字吉見1-1において、大飯発電所3号機及び4号機の原子炉を運転してはならない…」。これが原発事故後初めての運転差し止め訴訟勝利の判決文冒頭部分です。関西電力大飯原発3、4号機の運転差し止めを福井地裁の樋口英明裁判長が言い渡した時、河合氏は法廷で初めて涙を流したそうです。連戦連敗後の初勝利。感極まっての事だったでしょう。画像はhttp://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/c23cee97b8aefb95b510b0505f9c6072より借用。
次いで2015年4月14日、樋口裁判長は、関西電力高浜原発3,4号機(福井県高浜町)についても、運転を禁じる仮処分決定を出しました。右画像は喜ぶ海渡弁護士と河合弁護士で、サイトから借用し一部変更。
しかし九州電力川内原発について、鹿児島地方裁判所は4月22日、九州電力川内原子力発電所1,2号機の稼働差し止め仮処分を求める住民の申し立てを却下しました。これは上記2つの裁判とは正反対の判決で、私たちの衝撃も大きかったです。
でもそこで河合弁護士は考えます。「目の前のことに一喜一憂し、ここでまけたらすべて終わりとかではない」と。そこから原発デモなどを含めた「総力戦」に入ります。河合氏のアイデアの一つは、裁判で伝わらないなら、視覚に訴えるべく映画を作ろうとしました。弁護士の初映画監督です。その題名は「日本と原発」。私はまだ見ていませんが、大きな反響を呼び、自腹の制作費は回収出来るほどだったそうです(http://www.nihontogenpatsu.com/team)。
さらに監督としての意欲は止まるところを知りません。「日本と原発4年後」「日本と自然エネルギー」なども製作中です。
河合氏のこうした不屈の活動の原動力は「正義感」です。「ぼくらの戦いは決して負けません。なぜなら、勝つまでやり続けるからです」。
この新しい映画の最後では「この映画のことを新たな原発事故の避難所で思い出すことがないように、あなたができることを考えてください」という言葉で結ばれているそうです。
そう、私たち一人ひとりが出来る事を考え抜き、一人でも原発廃止を求めて立ち上がる事です!!