ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

通常技術と特異技術という二類型

「…その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています」(Ⅱペテロ3:16)

 東大全共闘の事で言及した当時の造反教会折原浩氏が、引き続き東大に残り、闘争を続けていた事をネットから知った。マックス・ヴェーバーを専門とする社会学者で、今も自分のホームページを持って、原発事故の事についても鋭く追及している(http://hwm5.gyao.ne.jp/hkorihara/)。

 しかし折原氏の議論を理解するのは相当難しい。ヴェーバー社会学における専門用語を、ドイツ語と共に縦横に駆使している(既存の邦訳の間違いなども指摘している)ので、双方を熟知していないと紹介さえ難しい。

 特に「理念型」という言葉の意味を理解するのが難しい。コトバンクにある幾つかの辞書のどれ一つとっても、おぼろげながら分かるといった程度だ。デジタル大辞泉「複雑多様な現象の中から本質的特徴を抽出し、それらを論理的に組み合わせた理論的モデル。それを現実にあてはめて現実を理解し、説明しようとする理論的手段。現実を素材として構成されるが、現実そのものとは異なる」とあった。比較的分かりやすい。

 折原氏は『ヴェー バーの科学論ほか再考 ―― 福島原発事故を契機に』 (名古屋大学社会学論集33 =2012年 )を、大学の許可を得てホームページに再録していたので、原発事故から約1年後の論文を、私たちも読む事が出来る(http://hwm5.gyao.ne.jp/hkorihara/zuisou2.pdf)。このPDFファイルの5ページ目からである。氏は少し広い範囲で読んでもらえる事を希望している。

 その中の8ページ目に「理念型」が出て来る。科学技術についてである。2つの事例が類型として掲げられ、区別を必要とする。それは「通常技術」と「特異技術」である。

 前者は「事故が起きる公算(ないし客観的可能性)は確かにあるけれども、犠牲は限定 されていて、目的達成のメリットをそれほど棄損しない、という場合である」。

 後者は長いので要約すると、事故が起きる確率は低いにしても、「科学知の限界から、事故が起きない 保障はなく、万一事故が起きれば、犠牲は甚大で、取返しがつかず、目的達成の正価値を棄損してあまりある、という場合」である。有害危険な廃棄物が出て、たとえ再処理されても、危険なまま累積され、後続の世代に先送りされる。

 原発技術は特異であり、通常技術と区別されなければならない。そうでないと、前向きで安全な対策で活かす事が出来る、といった一般的な建前が掲げられ、原発の存続そのものは容認されてしまうからである。

 だから即全原発を廃止し、その廃炉工程でのみ安全を確保する必要がある。

 この特異技術こそ「理念型」として導き出されると、折原氏は言う。

  私たちは人工物が専門家の合理的予測によって制御出来ると信じているだけである。

 ヴェーバーの『プロテスタンィズムの倫理と資本主義の精神』は、バプティストの立場から何回か読んだが、こまた難しい。プロテスタント、特にカルヴァン派の倫理と、営利を目的とした資本主義の精神とは、どう結び付くのかいまだ良く分からないが、この本の題そのものが「理念型」と考えれば、現実は異なるとしても良いとだと納得する。

 ところで米国が典型的な例だが、もはや現代の大半の米国人には、そうした宗教家の倫理など形骸化し、資本主義精神である営利追求に汲々としている。この熟成した資本主義において「精神のない専門家」が跋扈し、やがて終末を迎えるのかどうか。折原氏はこの確固たる「殻」を解消させ、新しい「殻」を形成する「全く新しい」且つ「かつての思想や理念の力強い復活」も内包する「予言者」たちの出現を嘱望し、彼らが新しい世界像を提示し、「理念型」を示してゆけると期待した。

 現に東大闘争などを通し、「科学とは何か」「科学者はいかに生きるべきか」を徹底的に論じ、「公害、環境、医療、原発などの実態に即して『近代(合理主義)工業文明』の非有機的・非人間的問題性を具体的に告発し、生命系の自然循環を回復し維持しうる方向への軌道転轍を説いた」人々、例えば高木仁三郎氏らの名前を、折原氏は挙げている。今そういう市民科学者らは極めて少ない。

 折原氏の論文を苦心惨憺して分かり易く纏めて見たが、勿論誤読もあると思う。ご寛恕をお願いしたい。