ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

堀辰雄の『風立ちぬ』

 高校時代から数十年ぶりに堀辰雄の『風立ちぬ』を読み返してみました。目的はこの本の「序曲」に唐突に出て来る「風立ちぬ いざ生きめやも」という句を再度考えてみる為でした。
 この詩はフランスの作家ポール・ヴァレリイが書いた『海辺の墓地』という作品の中にあるそうで、堀辰雄が訳したものです。高校時代は堀氏の創作だと思っていました。

 堀氏は1904年生まれ、旧制の第一高等学校から東大の国文科を1929年に卒業し、本格的な創作活動に入るわけですが、既に第一高等学校の時から、身体の健康に恵まれず、肋膜炎で休学しています。大学時代も肺炎で休学し、卒業後1年経過した1930年に多量の喀血をし、結核と診断されています。その頃からしばしば軽井沢で療養し、1933年に軽井沢で矢野綾子と知り合い、翌年婚約しました。しかし綾子も結核を患っていた為に、二人で富士見高原の療養所に入院しました。綾子の病状は思わしくなく、その年の冬に亡くなりました。
 その体験があって、堀氏はこの『風立ちぬ』を書いたのでした。
 物語は八ヶ岳サナトリウム(*結核療養所)で共に暮らす「私」と婚約者「節子」との対話が主体です。ネットで或る読後感を寄せた人の表現を借りると、この物語は清澄なロマン、抒情に満ちた世界です。「私」は「節子」を愛し、「節子」も「私」を愛しています。「私」は自分以上に結核重篤な「節子」の事を気遣っています。ですから勿論二人はプラトニックラヴの関係です。
 死が「節子」に迫って来ます。最後のまともな対話は、「お前、家へ帰りたいのだろう?」「ええ、なんだか帰りたくなっちゃったわ」です。不安を感じた「私」は「節子」の顔を凝視し、次の瞬間にはベッドの縁に顔を埋めてしまいました。
 その後「私」は「節子」の最期に触れていません。突然最後の章「死のかげの谷」に移り、もう「私」一人だけになっています。そこから「節子」が死んだ事が分かります。
 そこで冒頭の「風立ちぬ いざ生きめやも」というフレーズですが、昔からいろいろな解釈があったようです。特に「風立ちぬ」でそうです。「風が立った」。しかしその風とは一体何を象徴していたのでしょうか?
 そのヒントは「死のかげの谷」の一番最後の部分にあるような気がしました。つまり「節子」の死から三年半経過し、「私」は再びこの村に来て、別荘の立ち並ぶ谷の一角に山小屋を借りて住もうとしています。そこは「幸福の谷」と呼ばれ「静かなところ」ですが、そこと背中合わせになっている谷は、「風がしきりにざわめいている」のです。ゆえに「幸福の谷」と対極を成し、「私は」詩篇23の聖句を思い出します。
 「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」(詩23:4)。
 向かい側の谷は「私」にとって「死の陰の谷」でしたが、実はこの「幸福の谷」こそ「私」にとっては「死の陰の谷」ではないかと思います。一人暮らしの限りない孤独と寂寥感、そしてそこの教会を畳んで別の地に移ろうとするドイツ人神父、遂に「私」は、この詩23篇に希望を見いだせず、ただ「空虚さ」だけが心を占めています。
 従って「風立ちぬ」とは、不安な風のざわめきが心の中に立ったと考えると自然です。「節子」のこれからを思うと、心がざわめいて来るという事です。
 しかしそれでも「私」は「いざ生きめやも」と続けています。「さあこれから二人で何とか生きてみよう」という、ささやかな決意の表れではないでしょうか。
 ところで聖書の「風」は神の第三位格である「聖霊」をも意味しています。
 「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」(ヨハネ3:8)。
 つまり聖霊という風が吹き留まった人は、新しく生まれます。聖霊が「生きよ」と言われるのです。それが救いです。そこには堀氏の見た空虚さは一切ありません。全くの希望に満たされた新しい生活が始まり、それは失望に終わる事がありません。
 「風立ちぬ いざ生きめやも」これが数十年後の私の解釈でした。皆様は如何?