ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

行間を読む事

 「行間を読む」という言葉があります。その意味は新明解国語辞典によりますと、『文字面には現れていない、表現主体の真の意図を汲み取る』とあります。また「作者のほんとうに言いたい気持ちを読み取る」ともあります。私はネットからもっと簡単に「文章と文章の間の意味を考える」という意味に解しています。「文字になっていない部分のニュアンスを感じる」でも同じです。それは会議や会話でも成立します。
 2012年11月26日の朝日新聞広告欄で、中野信子さんという脳科学者が記者のインタヴューに答えていました。東大で脳神経医学を専攻し、フランスに留学した経験もある人です。帰国し現在は脳や心理学の研究と執筆活動をしています。

 ネットで調べますと、『脳科学からみた「祈り」』などといった、ちょっと面白い本を書いています。「前向きな心、感謝、人を思う祈り」が脳を活性化し免疫力を高めるといった本の内容紹介が出ていました。出版は潮となっているので、創価学会系の人かなと思いました。他の本の題名は『恋愛と脳』『セックスと脳』『コスプレと脳』などとなっています。
 それで本日の題に関してですが、中野さんがフランスという異国で研究員を経験した事が、そのまま言われています。
 まず最初ですが、フランスでは仕事で結果を出す人ほど、自分自身とプライベートな時間を大切にしているという事だそうです。日本のように残業で夜遅くまで残っている人はいないのです。彼らは家に戻ってから、自分の趣味などに熱中し、それによって脳も大きな刺激を受けて活性化されます。そういう人は次の日また脳の切り替えがうまく、自分の持っている夢や目標に集中出来、よく働けますし、そのような人ほど仕事で信頼されているそうです。
 そして次ですが、こうしたフランスの研究所には様々な国の人々が集まっていますから、何より「個」が優先されるとの事です。「個」としていつも自分の考え方をアピールしてゆかなければなりません。民族(*朝日記者は「人種」という言葉を使いますが、これは私としてはたぶんに差別的意味合いがあるので、極力避けるべきだといつも主張しています)、宗教が異なる背景を持つ人々の集まりですから、どんな些細な事であっても、すぐに発言するという事がことさら重んじられています。何も発言しないでいると、決してその人は理解されず、評価が得られません。ですから中野さんは「言葉にしたことが全てで『行間はないんです』と言い切っています。
 ところが日本人は「これを言ったら馬鹿にされるとついためらってしまう」と中野さんは言います。「その一瞬のためらいが差をつけます」とも。
 これを聞きますと私はアメリカの文化人類学ルース・ベネディクトの言った「恥の文化」をすぐ思い出します。それが収められている『菊と刀』は、1946年に出されたそうですが、それから66年経過した現在も依然として生きていると思います。
 つまり日本人は「他人の目」を異常に意識します。自分が「個」としてどう行動するかではなく、他人(世間)がどう思うかという事を主体に行動を決めるわけです。他人(世間)に笑われたくない、恥をかきたくないというのが日本人の行動を規定するのです。
 ですから自分の所属する組織を生かす、組織を重んじるが為に、「個」が犠牲になる傾向があります。それはまた欧米の「罪の文化」の対極にあるわけですから、「個」としての責任は採らないという無責任さにも通じます。それが明確に表れたのが、東日本大震災です。
 初期活動であれだけの犯罪的失敗を犯しながら、誰も「個」としての責任をとらない、特に政治家・官僚・学者がそうでした。それを安富渉氏は「東大話法」という新語で表現しました。
 また日本人は会社や研究所での仕事をそのまま家庭にまで持ち込んで来て、休日でもうまく頭の切り替えをしようとしません。欧米に比べ遊びが下手なのでしょう。
 中野さんの発言からそんな事を考えて来ました。では本来の文章と文章の間の意味を考える事を聖書に適用するとどうでしょうか?
 実は聖書はヨハネが「エスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う」(ヨハネ21:25)と言ったように、神のみことばは旧新約66巻の中に凝縮されていて、実際には行間にも埋めるべき事柄が一杯あると言ってよいでしょう。しかし聖書は行間で表現主体(神)の真の意図を忖度するものではありません。書かれたものは全て神の指示によるもので、ヘブル語ケタヴ・イャード=手書きの原稿・写本を直接読んで神を理解するわけです。従って聖書に関する限り、「行間」はありながら、無くても完全という事になります。恥の文化の日本人がこの聖書によって「罪の文化」に変えられ、「個」としての責任を持つ日は果たして到来するでしょうか?