ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

日本国憲法の一部を起草したベアテ・ゴードンさんの死

 「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」(テモテ第二4:7)。


 nice100showさんのブログ(http://d.hatena.ne.jp/nice100show/20130101/p1)から、初めてベアテ・ゴードンという人の名前を知りました。彼女は日本国憲法の2つの条項の草稿を、他国のあらゆる憲法を参考にし、1週間ほとんど寝ずに没入して書き上げた人として、良く知られているようです。というか私たち庶民よりも、憲法改悪を狙う保守派政治家の間で、その名が知れ渡っていたようです。
 nice100showさんが詳しく紹介してくれたので、ちょっと外国では、特に米国ではどう評価されて来た人なのか探る為、1月1日のニューヨークタイムズを閲覧しました(http://www.nytimes.com/2013/01/02/world/asia/beate-gordon-feminist-heroine-in-japan-dies-at-89.html?hpw)。題は「日本女性の諸権利に関わる長く目立たなかった女性ヒーロー、ベアテ・ゴードン、89歳にて死す」といった感じです。

 ベアテ・シロタ・ゴードンさんは1923年ウイーンで、ロシア系ユダヤ人の両親の娘として生まれました。父親は前の名前がヤッシャ・ホーレンシュタイン、有名な指揮者だったそうです。彼は娘が5歳の時、招聘を受けて東京音楽学校で半年教える予定でしたが、期待されほぼ10年延期して東京に住みました。その間ベアテさんはドイツの事を教える学校で過ごしましたが、そこがナチ化して行く中、アメリカンスクールに移籍、それから15歳の時(1939年)米国に単身で渡り、カリフォルニア州オークランドのミルズ大に留学しました。それからのベアテさんの勉強ぶりは凄く、やはりユダヤ人の血筋だと思いました。英語、日本語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ロシア語を流暢に話せるようになり、在学中サンフランシスコにある政府当局に勤め、東京のラジオ放送傍受の仕事をしました。そしてそこにあった放送局で日本降伏を勧める放送原稿を書いていました。
 1943年大学卒業、1945年に米国市民として認められましたが、日本にいる両親の安否を尋ねる目的で、その年日本にやって来ました。普通の市民としては日本渡航は難しく、マッカーサー総督の通訳としてでした。そして田舎にて拘留状態だった両親と再会出来たのです。
 ご承知の通り、マッカーサーの戦後日本での最優先事項は新憲法草案を作る事で、1946年着手しました。それも1週間以内という厳しい条件付きでした。ベアテさんは30名近い憲法改正委員会の唯一の女性として加わりましたが、その時僅か22歳でした。
 彼女が関わったのは、2つの憲法条項の草案でした。
 14条「1 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない…」。
 24条「1 婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により維持されなければならない。2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」。

 この憲法は1947年施行され、1948年ベアテさんは米国諜報部主席通訳のジョセフ・ゴードン氏と結婚し、再度米国に戻りました。そして日米文化交流のみならず、アジアとの交流も積極的に行い、1991年に退職しました。
 しかし憲法施行後の数十年間は沈黙を守り続けましたが、それはこの作業が秘密であった事、弱冠22歳であった事、国籍が米国であった事、憲法改悪を叫ぶ日本の保守派の攻撃対象になり得た事などが理由だったようです。その後1980年代後半から公の発言をするようになり、講義やTV出演、ドキュメンタリーの作成などに関与し、日本国憲法改悪論者に対抗し、大胆にその擁護を訴えました。勿論日本にも数回やって来て、憲法9条問題なども大学等で積極的に語りました。
 そして昨年12月30日すい臓がんの為、89歳で亡くなりました。ベアテさんは試練も多かったけれど、晩年はパウロと同様、走るべき道のりを走り、その生涯を全うしたと言えるでしょう。憲法改悪を唱える安倍内閣が誕生しましたから、もっと長生きして護憲の為に叱咤激励してくれたらと思うと、ちょっぴり残念です。