ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

『戦後史の正体』を私も読んでみたその3

 「パウロが階段にさしかかったときには、群衆の暴行を避けるために、兵士たちが彼をかつぎ上げなければならなかった。大ぜいの群衆が『彼を除け』と叫びながら、ついて来たからである」(使徒21:35−36)
 最後はあの安保闘争で有名な岸信介です。

 岸が戦前東京帝大卒業後商工省に入り、東条内閣の商工大臣だった事は、幼い時新聞記事か何かで見て知っていました。当然戦後の極東裁判ではA級戦犯として逮捕されましたが、すぐ不起訴となりました。その理由は分かりませんが、すぐ公職追放となりました。それが解かれたのが、1952年のサンフランシスコ講和条約後でした。それからまもなく政界入りし、1956年石橋内閣の外務大臣となりましたが、石橋氏が脳梗塞で倒れ執務不能になったので、そのまま首相になり、4年後の1960年、あの安保闘争の時に辞任しています。その時私は中学生で、連日の激しいデモを新聞で見ていましたが、その年の6月15日東大生の樺美智子さんが、デモ隊の下敷きになって死んだニュースが流れ、これは大変な事態だなと思っていました。条約は3日後自然成立し、岸内閣は7月15日に総辞職しました。
 ですからこの安保条約の締結強行を眺めながら、この人はてっきり対米追従派だと思っていました。しかも孫崎さんの本を読みますと、岸は米中央情報局(CIA)から資金援助も受けていたそうで、私の確信はゆるぎないものとしてずっと頭の中にあったわけです。東条内閣の大臣だったとしても、戦後連合国際国最高司令官マッカーサーに平伏した人物の一人として「転向」したのだろうと思っていました。
 ところが孫崎さんはそれは違うと言われます。岸は吉田と米側4人だけで署名した旧日米安保条約(全5条)を改訂し、対米自主路線を全力で模索した政治家でした。親米路線をとり続けた吉田とは対照的な人物だったのです。
 彼は旧安保を「もっと自主性のあるものに改定する、そのためには再軍備も必要で、憲法も改正にまでもっていかななくてはならないという考えをもっていた。あわせて沖縄の返還を実現したい」(吉野俊彦による)と考えていました。

 勿論安保条約の改定に関しては、「国会議員、労働者や学生、市民が参加した日本史上で空前の規模の反政府、反米運動とそれに伴う政治闘争である60年安保闘争では安保条約は国会で強行採決されたが、岸内閣は混乱の責任を取り総辞職に追い込まれた」(ウイキペディア)のです。
 孫崎さんはそこで、もし岸政権が崩壊しなかったら、岸は「駐留米軍の最大限の撤退」を「日米安保委員会」で検討させていただろうと推定しています。しかし彼が辞めた為、目論んでいた「対米自立の動きもいっしょに消し飛んでしまった」と孫崎さんは言います。それは大変不幸な事で、実は新安保条約のほうが評価出来る点が幾つかあった、という事を指摘しています。
 結局米国はこのように自主路線を進めた岸を外して、日米協力の忠実な信奉者池田を首相に据えたのでした。米国は座していても、安保闘争で岸内閣は倒れると踏んでいたのでしょう。