ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

クリスチャンは銃を持つべきなのか

 「あなたがたの五人は百人を追いかけ、あなたがたの百人は万人を追いかけ、あなたがたの敵はあなたがたの前に剣によって倒れる」(レビ26:8)。 
 2013年1月26日のワシントンポストサイトに「クリスチャンは銃所有者なのか」といった題で、記事が書かれていました。

 公共宗教研究所が先週に出した調査結果によると、57パーセントの白人福音派(保守的なプロテスタントやバプテスト)の人々は家族の一員が銃を所有している家庭に住んでいます(カトリックの場合は31パーセント)。昨年12月コネチカット州で起きた銃乱射事件で、小学生20人が狂った男によって殺された事で、白人福音派は、銃規制法における制限事項のさらに厳しい追加に反対しています。
 米憲法修正第2条(規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有しまた携帯する権利は、これを侵してはならない)への熱烈な傾倒と、非暴力を宣べ伝える福音とを、こうした白人福音派はどう調和させようというのでしょうか。主イエス・キリストはご自分に宣告された死刑という不当行為と戦わず、自ら十字架刑に服しました。
 マタイ5の山上の説教では「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」(マタイ5:39)という聖句もあります。それは信徒に対し自ら復讐してはならず、忍耐を持って対処すべき事の教えです。*9・11のブッシュは、全くイエスの教えに反して行動しました。
 勿論イエスの時代銃はなかったわけですが、イエスなら銃に何か良い事があると思っておられた、などと想像するのは不可能です。
 コネチカット州の事件で大部分の保守的なクリスチャンの指導者たちは、銃賛成の「神学」を公に宣言しようなどとは思っていなかったでしょう。でもそうした主張をする人々が実際存在します。
 彼らは修正第2条が神によって承認されていると言いますが、その主張は彼らのウェブサイトに載っています。「憲法の著者たちは神の導きの下で行動していた。だから憲法そのものが神の霊感を受けている」。彼らは自国の為に神が特別なものを用意しておられた、だから建国の文書にその特別さが刻まれているなどと主張しています。
 テキサス州知事リック・ペリーは、銃の暴力には祈りだけが勝ち得ると言っています。銃ではなく悪が米国暴力の源だという事です。だから礼拝の場に戻り、神の助けの為に祈ろうというわけです。銃を責めてはいけない。腐敗した社会(堕胎の法制化、ひとり親の増加、同性愛結婚の増加、暴力ゲームやテレビや映画での暴力場面の増加等々)を責めようという事です。
 また彼ら保守派の指導者の中には、もし政府が銃に対する支配力を強くすれば、言論の自由、宗教の自由に対してもそうするだろうと見ている人もいます。
 武装する教師を支持する人は、隣人に対する自己防衛と愛(そして防御)は聖書的な意義があると言います。自己防衛の権利は根本的な自然の法則だと言う人もいます。自己防衛と他人の防衛は聖書的権限が与えられており、或る状況では道徳的要請でもあるという事です。
 さらに反対側の頬を向けるのは、妻の頬、子どもの頬を向けるという意味ではなく、銃規制は人間から、自己防衛という神が与えられた権利を奪うものだと言っています。
 これらは挑発的な発言で根拠はありません。イエスは弱者に共感を寄せ、銃を打つ人ではなく犠牲者たちに共感を寄せておられます。もしイエスの立場に立つなら、暴力で死んだ人々の立場にも立つべきです。真のクリスチャンにはそれしかありません。白人福音派の信条は狂気の沙汰です。