ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

『アメリカ 異形の制度空間』(西谷修著)−斬新な米国論

 「あなたがたは、ヨルダンを渡り、あなたがたの神、【主】があなたがたに与えようとしておられる地に入って、それを所有しようとしている。あなたがたがそこを所有し、そこに住みつくとき、私がきょう、あなたがたの前に与えるすべてのおきてと定めを守り行わなければならない」(申命11:31−32)。
 世界史を教科書で学んだ人なら、16世紀西欧で絶大な権力を揮っていたローマ教皇による、聖書から遠く離れたしきたりに対して、マルチン・ルターが始めた改革でその権威が揺らいだ事、またローマの支配から離れたものの、これまた教理の面ではカトリックに近く堕落していた英国国教会に異を唱えた、カルヴァンによる改革の事は良くご存知だと思います。カルヴァンは特に聖書に基づく信仰の清潔さ(ピュリフィケーション)を厳格に求め、清教徒ピューリタンと呼ばれていました。その為国教会からの迫害に遭い、アメリカに新天地を求めてメイフラワー号で「出英国」を実行したのでした。かれらはその事業を「新しいイスラエル」(神に召された者の国)の建設だと意味づけることができた」のです。だからその過程は聖書の出エジプトと同様で、冒頭の聖句にあります。

 しかしそこから先となると、先住民=インディアンも含め、上記題の本の西谷修氏の論稿は、現代米国の病弊も理解出来る出色の本です。西谷氏自身、「たぶんこれまでのどのアメリカ論にも似ていない」と言う通りです。私もおぼろげながら理解していたのが、この本で目から鱗が落ちた思いです。
 ではなぜ米国は「異形の制度空間」だったのでしょうか。西谷氏の定義を見ますと「<アメリカ>とは…十七世紀ヨーロッパに創り出された『ヨーロッパ国際法秩序』の外部に、その拘束を受けない『無主の地』とみなされた『例外領域』にもたらされた、<自由>の制度空間の名前」だったからです。西谷氏はさらに「その<自由>の基盤は、排他的で不可侵の権利としての私的所有権だった…<自由>の空間は、もうひとつの空間、先住民の属していた別の名もない空間、いわば自然的空間を排除した」と踏み込みます。
 それ故インディアンという先住民をじゃま者として排除し、土地とそこに含まれるものを資産として「解放」することが、米国の使命となりました。この原理は「土地ばかりでなくあらゆる存在物の領域に適用され、やがてこの世界全体が市場価値に換算される経済的財の総体に転化する。それが<アメリカ>と名づけられた『<自由>の制度空間』の基本的特徴であった…アメリカ>は『解放』をみずからの使命とみなし、世界中の住民を『解放』してまわり、力ずくでも<自由>を与えることによって全世界を『解放する』という妄執をときにあらわにする」。「<アメリカ>に全世界を作り変えること。それが『グローバル化』と呼ばれる事態であり、まさに世界の全域を<自由の制度空間>に作り変えることなのである」。
 如何でしょうか?今日の米国の実態をも実に明確に表しているのではないでしょうか?
 では何故米国では聖書に基づく信仰の清潔さを求めた清教徒たちが、そのように変質してしまったのでしょうか?西谷氏は上記「カルヴァン派」に注目しています。マックス・ウェーバーは有名な『プロテスタントの倫理と資本主義の精神』を書きましたが、これはカルヴァンを意識して考えると良く分かります。この派は教理として予定説を所持しています。「神の聖定によって、神の栄光が現れるために、ある人間たちとみ使いたちが永遠のいのちに予定され、他の者たちは永遠の死にあらかじめ定められている」ウエストミンスター信仰告白)。しかしその選びは神のみぞ知るで、人間には分かりません。だから西谷氏は「このピューリタンの宗教心は、救済への期待と不安(「救霊予定説」)から勤勉と倹約の精神を育み、それが結果として商業や産業の発展を促すことになったと言われる」と述べています。それは「善行の証し」となります。これは典型的な行いによる信仰となります。
 一方ピューリタンたちは「富の蓄積を功徳の証しともしていたため、その信仰の言説はいつの間にか、富に飢えた人びとの世俗的信条と見分けがつかなくなる」、と西谷氏は正確に指摘しています。だから時を経て、現在のような、信仰のない強欲で悪徳な米国人がその国を牛耳っているのです。
 私は行いによる信仰と言いましたが、それは彼らピューリタンたちが、自分たちの行動を旧約聖書出エジプトに擬えた事によります。その中には約束地カナンにおける先住民の虐殺も表現されています。なぜなら彼らは神の目からみて悪い民だったからです。「あなたが彼らの地を所有することのできるのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。それは、これらの国々が悪いために、あなたの神、【主】が、あなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ」(申命9:5)。
 しかしこの申命記を含む旧約聖書の全体が、行いによる義を示しており、それを正当化したピューリタンたちは全く間違っています。それは信仰ではありません。ただ救い主イエス・キリストを信じる信仰だけが、その人を救うのであり、それは誰にでも開かれているのです。旧約聖書は恵みによる救いを示す新約聖書の雛形であり、先住民インディアンを勝手に迫害してもよいとする<自由>など存在しません。
 ゆえに私としてはカルヴァン主義を標榜する清教徒たちが米国にわたり、倹約と熱意を持って救いを期待しながら、自由の名のもとに土地を所有して労働し、やがて聖書の道から大きく逸れてしまった事に、最大の悲劇があったと考えます。旧約聖書の実践だけでは、今のイスラエルと全く同じで、神の目から見て義とされません。
 歴史にもしも…だったらという事は無いですが、新大陸に上陸した信徒のうちで、いかなる戦争にも参加せず、武器もとらないという教理を掲げるメノー派、クエーカー派などが主流となっていたら、全然違うアメリカが創出されていたと想像します。「また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています」(マルコ12:33)。これが真の福音主義者です。私はこの本を通し、自分の信仰を再度確かめ、現代米国をかなり理解する事が出来ました。非常に価値のある本で、一読をお勧めします。