ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

『荒れ野の40年―ヴァイツゼッカー大統領演説』を読んで

 「私は、四十年の間、あなたがたに荒野を行かせたが、あなたがたが身に着けている着物はすり切れず、その足のくつもすり切れなかった」(申命29:5)。
 上記の本ですが、cangael さんが紹介して下さり(http://d.hatena.ne.jp/cangael/20130208/1360279318)、図書館で借りて読みました。その主要な箇所はブログに書き出しておられるので、私は別の観点から、この演説の意義を考えてみたいと思います。
写真はヴァイツゼッカー氏。
 ヴァイツゼッカー氏はネットの情報によりますと、1920年ドイツのシュトゥットガルトで生まれました。父親の転勤でスイス、デンマーク、ノルウエーにて過ごし、1936年ドイツに戻りました。既にヒットラーの率いるナチス・ドイツが1933年に政権を握っていましたが、この本の最後に村上伸東京女子大教授(当時)が書いているように、氏はこの33年のナチス政権に関して、ヒトラーを「過小評価し、軽蔑して」いました。これはは長続きしないと甘く見ていました。しかし考え直して38年ドイツ国防軍に入隊し、各地で作戦に従事し、幾度か負傷しました。1945年ナチス政権が倒れた時も負傷しており、かろうじて生還しました。1954年にキリスト教民主同盟に加入していますから、遅くともこの時までに信仰を持っていたと思われます。
 そして教会業務に長らく携わった後、1981年西ベルリン市長に就任、その後1984年から1994年までドイツ連邦共和国第6代大統領として活動しました。敗戦後40年経た1985年に連邦議会で演説を行いましたが、これが上記の本の内容となっています。
 1990年ドイツ再統一で、旧東ドイツ国民を歓迎しました。大統領退任後も活動を続けています。
 聖書で40という数は良く登場しますが、ヴァイツゼッカー氏が頭に描いていた「荒れ野の40年」は、聖書の2つの事例に基づいています。1つはイスラエル出エジプトを果たした後、荒野で神の約束に背いて重大な罪を犯した為、40年荒野でさまよっていた事です。その第一世代が死に絶えた後、若い指導者ヨシュアにより、イスラエルは約束地に入る事が出来ました。罪を犯した世代の完全な交代まで40年を要したという事です。「【主】の怒りはイスラエルに向かって燃え上がったのだ。それで【主】の目の前に悪を行ったその世代の者がみな死に絶えてしまうまで彼らを四十年の間、荒野にさまよわされた」(民数32:13)。
 2つ目は同じ旧約の士師記に出て来る40年という年月です。「こうして、この国は四十年の間、穏やかであった。その後、ケナズの子オテニエルは死んだ。 そうすると、イスラエル人はまた、【主】の目の前に悪を行った」(士師3:11−12)。つまりここでは主の目の前に悪を行い、厳しい試練に会ったイスラエルは、士師(さばきつかさ)オテニエルの手で救われ、40年間安泰だったのに、彼が死ぬと再び主の前に罪を犯したのです。イスラエルは40年しかその救いを「心に刻んでおく」(かぎの言葉ドイツ語エアインネルンerinnerun)事が出来なかったわけです。
 そこでヴァイツゼッカー氏は「四十年というのは常に大きな区切り目を意味しております。暗い時代が終り、新しく明るい未来への見通しが開けるのか、あるいは忘れることの危険、その結果に対する警告であるのか」と問うています。

 ですからナチス・ドイツの行った忌まわしいホロコースト(大虐殺)の全貌が明らかになった時、何も知らなかったでは済まされませんでした。その人たちは、罪の有無を問わず、個人として「どう関り合っていたかを静かに自問」して欲しいと氏は言われます。そして有名な「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」という演説に繋がりました。
 この演説はキリスト者としてのヴァイツゼッカー氏の真骨頂を見せたものとなりました。つまり率直に自らの罪を認め、それを大胆に告白して神の赦しを乞い求めた事です。神は愛ですから、そのような悔い改めた罪人の罪を豊かに赦して下さいます。
 しかしこうしたキリスト教的背景のない日本では、この恐ろしい「罪」が自覚されません。為政者も庶民も過去の日本軍の行った残虐な行為を、関与の如何を問わず自分の問題として考え、心に刻む事をしません。原発も同じです。私たちは福島県民の犠牲の上に安楽な生活が出来ました。その事実を深く心に刻み、今後どう個人として贖いに関わって行くかが問われていると思います。