ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

父幸田露伴の病床で仕えた文(あや=次女)

 「子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです」(コロサイ3:20)。
  朝日新聞で気鋭の社会学本田由紀さんが「死」について推奨していた幸田文さんの「父=その死=」、その父の思い出を書いた「こんなこと」を主体に読んでみました。私の家にはずっと「こんなこと」の単行本があり、母が気に入っていたようです。読んでみてなるほどと思いました。

 幸田露伴は1867年生まれの明治・大正時代の文豪で、『五重塔』などの作品で良く知られています。数え年29歳で結婚し、長女・次女、長男を産みました。1904年に生まれた次女が文(あや)です。文が5歳の時、母親が亡くなり、その弟、そして兄も早逝しています。文は24歳で結婚しましたが、やがて離婚し、娘の青木玉を連れて父のもとに帰り、ずっと父親と共に過ごしました。
 幸田家はウイキぺディアで調べますと、元々法華宗でしたが、有名なキリス教の伝道者植村正久の勧めで父が回心し、その家族も救われましたが、露伴だけが拒否し無宗教だったようです。露伴の妻が亡くなった為、1912年にやはりキリスト教徒の女性と再婚しました。その後妻の勧めで文はミッション系の女子学院に進み、やはり上記植村正久によって信仰に至っています。第二次世界大戦が終了する1945年、後妻が召天、また疎開中に小石川の家が空襲で焼けた為、文は父親露伴、娘の玉と共に千葉県市川市菅野の借家に移りました。1947年に父露伴が亡くなりましたが、文はその2年間に糖尿病などの持病があって寝たきりになった父を、この借家でずっとケアし、最期までの看取りをしました。その経験を記したのが「父=その死=」です。
 この本を読みますと、父露伴は明治の厳格な一家の主といった感じです。40歳を越えた文は在宅で看病していますが、「父の癇癪、私の依怙地、通学に余暇のない孫(玉)」といった表現があり、相当苦労したようです。今なら病院でないととても看病など出来ないと思いつつ読みましたが、信徒である文は上記聖書箇所に従って、ひたすらその父親に仕えました。こうした父子の関係は聖書的な背景のない現在の日本では、とっくに廃れていると思います。典型的な戦前の「女性」像と読む人もいるでしょうが、同じように在宅で母を看取った私にはそうは思えません。露伴は信徒ではなかったけれど、愛情を持って厳しく娘を躾けて来た事が、『こんなこと」における父親の思い出から偲ばれます。
 とは言ってもこの闘病の記、決してきれいごとでは済みません。「父も子も老いてますます頑なで依怙地だった」。ですから「おとうさんは病人ですから黙っていらっしゃい」「看病人のくせにおまへは黙ってゐろ…おまへはわたしに逆らったことを悲しむときが来るだらう。かはいさうなやつだ」といった棘のある言葉のやり取りが続きます。
 でも糖尿病から来る血管の脆さがたびたび大出血をもたらし、文はその都度動揺します。医者の往診も依頼します。「病んでゐる中全部が看病であり、心身晴れて休む間はない」。
 ところがその死が迫ったある日、父親の態度が急変します。さすがの父親もその頑固さを押し通す事が出来なくなりました。「ご飯あがる?」「あゝ。」「おかゆの方がいゝでしょ。」「かゆがいゝ」…文は慄然とします。「これはまったく父でない人のことばであった」「父が父の声で父の舌で話してゐて、全然父でなかった」。父露伴は死の近いのを悟って、初めて素直になったのでしょうか。
 「おとうさん、わかりますか。」「文子だろ。」「それは浸み入るやうな悲しさであり、尊敬すべき父の姿だった」「一人のこして行く文子をいとほしみつゝ憫みつゝ、微笑してゐたその眼、まことに慈父であった」。
 そして遂に痙攣が来て、文は医者と共にその最期を看取りました。「父は死んで、終った」。あっけない死の描写でしたが、その残酷な死が父子を永遠に分けたのでした。父は最後までキリスト教徒ではなかったからです。
 間もなく今年ノイースタ―(復活祭)、愛する人の死と天国での再会を、この本を通して考えてみました。