ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

『戦後史の正体』を私も読んでみたその2

 「人は互いにうそを話し、へつらいのくちびると、二心で話します」(詩12:2)
 次は対米追随路線をとった人々です。その筆頭が何と吉田茂でした。私はくわえタバコの吉田の写真を見るたび、傲慢不遜な人で、いかにも対米自主路線を主張しそうな人物と思っていました。

 彼は東大法科を出た後外交官試験を1906年に受けて合格し、外交官としての一歩を踏み出しました(同じ試験のトップがA級戦犯で処刑された広田弘毅)。ウイキペディアによりますと、中国での生活が長く、日本に戻ってから広田内閣の外務大臣候補となったそうですが、その頃には既に新英米派だったそうで、大臣になれませんでした。そこで吉田は東条内閣の頃、盛んに米国などとの和平工作を行い、1945年2月逮捕されました。しかし1か月余で釈放されました。
 1945年9月、東久邇宮内閣の外務大臣に就任、次の幣原喜重郎内閣でも外務大臣を務めています。
 私は吉田こそ連合国最高司令官マッカーサー論議して、堂々と渡り合える人物と見ていました。孫崎さんによると、そうした評価をした学者もいた事が分かります。しかし孫崎さん自身は違う評価をしています。重光ら自主路線を貫こうとする人々を、吉田は「陰でこそこそと非協力的な行為をする」と非難していますが、孫崎さんはそうではない、吉田こそ「日本国民には非常に偉そうな態度をとりましたし、米国に対しても互角にやりあっているようなポーズをとっていました」と評し、大変な役者で二心あるような人物を装っていたようです。むしろ吉田こそ陰でこそこそ親米的な行為をする人物だったようです。
 その吉田は1946年の第一次内閣から1953年の第五次内閣まで、長期にわたり首相の座にあり、孫崎さんはそれが「占領中の対米追随路線が独立後もまったく変わらず継続され、むしろ美化されて、ついには戦後六十年以上もつづくことになってしまった。これが日本の最大の悲劇なのです」と、的確な評価をしています。私はその重要な点をこの本から学びました。
 ちなみに1953年は、衆議院予算委員会の時吉田が野党議員の質問に対し「バカヤロー」と叫んで不信任案が出されて可決し、解散後は再び政権復帰する事の無かったきっかけとなった年でした。ところがこの吉田の声、さぞ大きな声を張り上げてと思いきや、小声でほとんど聴き取れなかったそうです。これも私にとっては初耳の事でした。