ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

安倍首相の靖国参拝を聖書から考えてみる

 安倍首相は2013年12月26日午前、東京・九段北の靖国神社を参拝しました。

 それに対して中・韓両国のみならず、英米そしてロシア、EUなどが一斉に批判的な報道をしました。安倍首相は国際的な非難の矢面に立たされました。この問題私は聖書的な視点から幾つか考えてみました。
1「平和をつくる者は幸いです」(マタイ5;9)。現代は「戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです」(マタイ24:6)と、キリストが言われたように、貧富の格差が世界中で広がり、戦争や戦争の噂が絶えません。しかし第二次世界大戦その他戦争を体験した人々の切なる思いは、平和の追求でしょう。しかしそれが逆行するのは、「人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人…」(マルコ7:21)とあるように、人間の心にある罪の問題が解決されていないからです。
 戦争をつくる事を画策した東条その他靖国神社に祀られているA級戦犯たちが、韓国や中国を侵略したのは明確な歴史的事実です。世界中がそれを認識しているのに、安倍首相は戦犯をかばい、その戦争を正当化しようとしています。ですからとりわけ米国のニューヨークタイムズワシントンポスト、ウオールストリートジャーナルが、靖国神社をあえてwar shrine=戦争神社と訳したのも当然でしょう。
2「もしそのささげ物が和解のいけにえの場合、牛をささげようとするなら、雄でも雌でも傷のないものを【主】の前にささげなければならない」(レビ3:1)。聖書の世界では「いけにえをささげる」という場合、その動物に瑕疵があってはならないし、捧げる人も心に偽りがあってはならないのです。第二次世界大戦中、ファッシスト政権を倒す為、純粋に自らを犠牲にして戦った人々がいます。例えば日本帝国を滅亡させる為、あえて志願し、祖国の礎になろうといた学徒たち等です。
 しかしA級戦犯東条の場合は明かに違います。庶民は召集令状である「赤紙」一枚で、心ならずも徴募させられ、戦地でなくなりました。東条は強制的に庶民や自らの信条と異なる敵を戦地に追いやったのです。しかし河北新報は「日本のために尊い命を犠牲にされたご英霊に対し、尊崇の念を表し、手を合わせた」と報じています。これは軍人や軍国主義兵士たちを除き、大半が自らの命を犠牲にさせられた遺族に対する限りない冒涜的言葉です。この偽善に満ちた表現を、英米キリスト教的基礎がある国々が認めるわけがありません。
 なぜなら死んだ人々は全て神の御手に委ねられており(「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る」{伝道12:7}」、彼らが手を合わせ=手を組み、目をつぶるのは、主として遺族への慰めと平安を祈っているからです。従って安倍首相が「戦争で散った方々のご冥福を祈って手を合わせる。世界のリーダーの共通の姿勢だ」(朝日報道)という時、それは世界の共通の認識ではありません。安倍氏は日本でしか通用しない事を、欧米も通用するという無知をさらけ出しています。
3「だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます」(マタイ23:12)。河北新報記者によると、「政権発足1年の節目で自身の信念に固執した首相には、衆参両院で多数を握る権力者の高揚感さえ垣間見える」と書かれていました。この安倍という権力者のおごり、周囲の人々の意見を無視する独裁的態度、それは全く神のみこころに反します。ですからバビロン王ネブカデネザル王について聖書は、「 王はこう言っていた。『この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。』このことばがまだ王の口にあるうちに、天から声があった。『ネブカデネザル王。あなたに告げる。国はあなたから取り去られた。あなたは人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べ、こうして七つの時があなたの上を過ぎ、ついに、あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、その国をみこころにかなう者にお与えになることを知るようになる』」(ダニエル4:31−32)。このみことばは成就し、王は裁かれ低くされました。勿論安倍首相もきっとそうなると確信します。日本は限りなくひどい、宰相の器でない人を選んだものです。