ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

シリアの危機に聖書の預言を見る伝道者たちがいる

 「見よ、ダマスコは取り去られて町でなくなり、廃墟となる」(イザヤ17:1)
 シリア地域はキリスト教の最初の成長期では、エルサレムを除いてどこにも引けを取りません。
 2013年8月29日のタイム誌サイトでは、上記の題・副題と聖書箇所で、果たして預言が成就するのかどうかを探っていました。

 それは聖書のイザヤ書17章にある預言の個所で、根本主義的なクリスチャンたちのブログは、シリアのエスカレートする暴力行為が、昔の聖書本文が間もなく成就する事を意味するという信仰でざわついています。
 「長く預言されていた終わりの日は、ここに来ています」と、一つのブログでは宣言しています。また「ダマスカスから軍事行動しているテロリストたちの群れが、近い将来別の戦争を予期して、イスラエル国境に武器貯蔵庫を建設しているので、イザヤ17からの預言が歴史になるのも、そう遠い先の事ではないでしょう」と、イエス・キリスト再臨の預言を待ち望んでいる別の群れも言いました。
 しかしほぼすべての聖書学者たちは、本文のそうした字義的解釈は相当問題だと主張しています。その箇所は2,500年よりも前に書かれてもので、それはアッシリア侵略の時のエルサレムの敵を非難したものです。その預言的な託宣と呼ばれているイザヤ書の節は、ただシリアのみならず、モアブ、バビロン、エジプト、ツロを含むたくさんの古代国家等を名指ししています。当時ユダヤの民を脅した国々です。
 コロンビア神学校の名誉教授で、イザヤ書の専門家であるウオルター・ブルグマンは、タイム誌にイザヤ17の解釈を語り、現代の戦いとの関連性など馬鹿げた事だと言いました。「聖書をそのように読む事は出来ません。それは古い文脈についての古い詩なのです」。「もし私たちがそうした安易な関連性で現代的なものにするなら、本文を米国に対抗するものとして読む事も学ばなければなりません。なぜなら米国は現在バビロンやそうした古代の超大国の役割を果たしているからです。私たちはそうした馬鹿げた繋がりを作り上げる事については、そっと押さえつけなければなりません」。
 ブルグマンは、その箇所のより良い解釈は、全ての国家が正義の神に釈明義務を負っており、シリアやバビロンのような国々もそうであって、いかなる国も高い道徳的根拠を持っておらず、米国も例外ではないと言っています。
 イザヤ17は聖書でシリアが言及されている唯一の箇所ではありません。イエスご自身がシリアを旅された事はおそらくなく、キリスト教では二番目に有名な指導者である使徒パウロが、ちょうどダマスコ(=ダマスカス)の外でキリスト教に回心したのでした。
 シリアの地域はまた、キリスト教の最初の成長期ではエルサレムに次いで二番目に重要なところでした。シリアのアンテオケ(=アンティオキア)の教会は、アレッポの西60マイルの所にある町ですが、ちょうど今日のシリアから現代トルコにいたる境界を過ぎた所にあります。そこはキリスト教の最初殉教者ステパノが石打ちの刑で死んだ後、エルサレムで起きた迫害を逃れた初代クリスチャンたちの避難所となっていました。パウロはアンテオケを有名な伝道旅行の為の本部とし、その時ピリピやテサロニケ、コリント、エペソの教会を打ち立てたのでした。学者たちの中にはアンテオケがマタイの福音書の書かれたところであると信じている人もおり、使徒行伝はアンテオケで弟子たちが「クリスチャン」と呼ばれるようになった最初の場所であると記しています。
 その地域はまたアンテオケの監督だった聖イグナチウス、クリソストモスのヨハネ東方正教会の基礎を築いたダマスコのヨハネを含むキリスト教初代神学者たちも生み出しました。
 *事実はとにかく、預言は大変難しい問題です。