ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

詩人金子兜太の生き方

 「ただ、あなたは、ひたすら慎み、用心深くありなさい。あなたが自分の目で見たことを忘れず、一生の間、それらがあなたの心から離れることのないようにしなさい。あなたはそれらを、あなたの子どもや孫たちに知らせなさい。」(申命4ノ9)。

 2016年8月10日の福島民報は、敗戦の日を前に、詩人金子兜太氏にインタビューした記事を載せていました。画像はネットからお借りし、一部変更。
 金子氏は旧制水戸高校から東大経済学部を出て日銀に入り、1943年学徒動員で応召、海軍主計中尉として、トラック島に渡りましたが、そこは日米の激戦地となりました。
 1044年2月に米軍の空襲を受けたトラック島は、ほとんど機能喪失の状態に陥り、さらに周辺諸島の陥落で、制空・制海権を奪われたと言われます。物資の供給が途絶え、島では多くの餓死者が出ました。
 金子氏は「筋骨隆々の男たちが見る見るうちにやせ、眠るように死んでいきました」と証言しています。
 そうした中、金子氏でさえ、あと何人か死ねば、残りを生かすだけの食糧はあるな」という浅ましい考えを抱いた事を、赤裸々に告白していました。
 さらに手榴弾の実験で、一人の工作兵が誤って身近なものにぶつけた為破裂し、「腕は吹っ飛び、背中がえぐれてぽっかりと穴が開きました」と、目の前で目撃した事を伝えています。勿論この兵士は即死です。金子氏は「こんなばかげた死に方は許せない。戦争はざれ言じゃないんですよ。手足が吹っ飛び、体に穴が開くんだ」と、憤りを込めて言います。
 戦後日銀に復帰したものの、労働運動に関わるうち、この組織が敗戦を経ても何も変わらない事に、鬱々といた気分を抱きながら早々と退職します。
 以後の金子氏は、あの戦争が何だったのかをずっと考え続けていますが、同世代の人々が次々と亡くなって行く中、自分の目で見た戦場での死のむなしさ、異常さを、是非とも戦争を知らない世代に伝えてゆきたいと、90歳を過ぎてからも積極的に活動しています。
 そして現安倍政権の改憲の動きに対しても危機感を抱き、こう考えました。いとうせいこうさんとの対話(http://www.tokyo-np.co.jp/hold/2014/taidan140815/ )の中にあります。
 「安倍さんをはじめ、今の政治家は、集団的自衛権を実現させようと、憲法の事実上の改悪を考えたりして戦争へ一歩近づいているが、なんであんな平気な顔で、得意顔でできるのかと考える。そうしたら分かりましたよ。死の現場をほとんど踏んでない人たちなんだ」。
 だから金子さんは「あの体験を忘れることは出来ません。若い世代に伝えることが、九十歳を過ぎてからの私の仕事だと思っています」と民報のインタビューで、きっぱり表明しました。
 私は戦争を体験せず、アサヒグラフなどで見た事、父母から聞いた戦争の怖さを伝え続けたいと願っています。ちなみに父は横須賀海軍で勤務中の事故や、相当数の人々を戦艦大和にて見送り、ほとんど帰還・再会することが無かった事を私に伝えましたし、母は東京杉並の家でP52が低空飛行で機銃掃射を浴びせた事を語りました。