ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

教養の再生と言うけれど

 「イエスは彼らに答えられた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です…もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです』」(ヨハネ8:34,36)

 現在なだれを打つようにして、教師も生徒も実用主義的な教育に向かい、「そんなこと社会に出て何の役に立つのか」と揶揄される教養教育が、ますます軽視されるようになっています。
 2014年9月2日の東京新聞に「国立大から文系消える?文科省が改革案を通達」という見出しの記事があり、「文部科学省は先月、同省の審議会『国立大学法人評価委員会』の論議を受け、国立大の組織改革案として『教員養成系、人文社会科学系の廃止や転換』を各大学に通達した」とありました。
 この通達が見たくてネットで探したのですが、見つかりませんでした。おそらくこの記事を契機とした反響の大きさを憂慮した文科省は、公表をやめたのではないかと推測していました。ところが再度検索したところ、2015年6月8日に下村文部科学大臣から通知がPDFファイルで出されていました。これと上掲通達とは比較出来なかったのですが、さらに2015年9月18日「新時代を見据えた国立大学改革」というPDFファイルも公開されていました(http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2015/10/01/1362382_2.pdf)。これを見ますと、明らかに文科省は、上記2014年9月2日と2015年6月8日の通達について、言い訳をしていました。東京新聞などの推測は「ノー」と切り出し、「文部科学省は、人文社会科学系などの特定の学問分野を軽視したり、すぐに役立つ実学のみを重視していたりはしない…社会の変化が激しく正解のない問題に主体的に取り組みながら解を見いだす力が必要な時代において、教養教育やリベラルアーツにより培われる汎用的な能力の重要性はむしろ高まっている」と釈明しています。
 しかし2015年3月13日、既に文科省は「理工系人材育成戦略」というものを公表していました(http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2015/03/13/1351892_02.pdf)。これを見れば、教養教育と言っても、文科省の狙いが理工系人材育成に著しく偏っているのは、間違いないと思われます。
 東京新聞の記事はまだ東京圏に居た私も読み、安倍戦略はとうとうここまで来たのかと、大きな衝撃を受けた事を覚えています。そして今でも考え続けています。
 たまたま図書館で『教養の再生のために』(加藤周一・ノーマ・フィールド・徐京植共著)という本を借りて読んでいました。
 徐氏はこの「教養」(=リベラル・アーツ)という言葉について、繰り返し「かつては特権的な階級の、それも男にだけ許されていた」という事を示しています。それは戦前の一高から東大を出た共著者の一人加藤氏にも当て嵌まります。しかし加藤氏はノーマ・フィールドさんが引き合いに出した、同じ経歴の和辻哲郎とは全く立場が異なります。和辻は戦前の典型的な教養人でしたが、大東亜戦争で時代の批判者とならず、戦争に協力するようになりました。
 そうした事を思索しながら、自分ながらに「教養」というものを考えると、どうしても徐氏が指摘されたイメージを払拭する事が出来ません。私たちの今生きているこの時代は、格差があまりに大きく、貧困な家庭、特に母子家庭の子は、ろくに教育も受けられず、親の貧困を受け継いでいるという実態を考えると(私も今その世代だったら、確実にそうなったと思っています)、教養もそうした子には全く無関係なものと、無視されたり敬遠されたりすると思うからです。いやそうではない、と言う徐氏のこの本に近づくゆとりもないし、文科省の「理工系人材育成戦略」のどこが偏っているのか批判する事も出来ないでしょう。
 加藤氏は教養と対立する実学的な技術者集団について、「全会一致の集団は、方向転換を必要としない場合にはうまく機能しているように見えるけれども、方向転換を必要とした場合には、無残な無能力性を暴露する…これを救う道はない。坂を下りだしたら滅亡するまで」と言っていますが、原子力ムラにもぴったり合うこの集団の本質を見抜き、どう対処すべきかという知識や知恵を何とかして身に着けなければ、それに抗う生活が出来なくなるのではないかと危惧しています。
 徐氏はこの本の核心部分で「自分自身がもっと知りたい、もっと深く考えたいというその欲求に忠実に学び、その学ぶという行為を通じて自分自身を自由にしていく、機械的・奴隷的労働から自分自身を解放していく、それがリベラル・アーツです。そして、そのリベラル・アーツは、かつては特権的な階級の、それも男にだけ許されていたのですが、現代ではそうではないはずだし、そうあってはならないはずですね。したがってここでの試みは、二十一世紀の日本社会で、いわゆる一般庶民、いわゆる平均的な人間が、性別を問わず、いかにみずからを自由人として育成できるかということです。しかしみずからを自由人として育成するためには、みずからが『捕われている』という認識がなければできません。みずからが何に捕われているのか、どんな構造の下に捕われているのかを知らなければ、みずからを自由にすることはできないんですね」と言っています。
 私は基本的には賛成ですが、現代格差社会の貧困家庭では、いや今のほとんどの日本人には、聖書的な観点からしても、それは事実上不可能だと思います。
 聖書では何に捕われているか明確です。生まれながらに持っている自己中心の「罪」です。この罪の奴隷になっているから、私たちは他者への愛や憐れみもなく、貨幣へのあくなき「物神崇拝」ばかり追及するのです。
 罪の奴隷からの解放は、それに打ち勝ったキリストに拠ります。
「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです」(ヨハネ8:36)。
 その事実は「聖書」を手にしてでないと分かりません。でも聖書は世界のベストセラーであり、貧困な子でも入手出来ますし、ギデオン協会などを通してただで手に入ります。そして時間を作り出すことが出来れば、自由に読む事が出来ます。漢字にはルビもふってあります。加藤氏が出会ったプロテスタント矢内原忠雄教授の語った、「何が正しいかということは全部聖書に書いてある」という発言の通りです。従って信仰を持ち、聖書のことばを身に着けた人は、どんな状況にあっても豊かに生きられ、知識も知恵も与えられます。本当に自由人であり、その人こそ「教養人」であると確信します。
 それは別にしても、実学に対抗するのが教養であるとすれば、それもまた富裕な一部の人のみ身に着けられると考えると、「教養」という言葉を何とか変えないといけないのではないかと思います。貧富の格差にもかかわらず、人は神から賜物を頂いて生まれてきます。すると「教養」ではなく「素養」としてみるのはどうでしょうか?忌憚の無いご意見をお待ちしています。