ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

日野原重明医師の召天

 「そこで、【主】は、『わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう』と仰せられた』(創世6:3)。
 これはノアが説教していた時代の事で、洪水後人の齢は急激に低下しました。現在120歳まで生きる人はまずいないでしょう。

 2017年7月18日聖路加国際病院名誉院長で、現役の医師でもあった日野原重明先生が、呼吸不全で105歳の生涯を閉じ、天に召されました。左の本は星野富弘さんとの対話。
 日野原先生の父母はクリスチャンで、その影響を受け、早くも7歳で受洗、以後今日に至るまで聖書のみことばを大切にし、年老いても心身ともに鍛えて来ました。
 私が覚えているのは、階段のある駅でも職場でもマンションでも、その階段を一段飛びで上がる事です。先生は100歳近くまでその運動を実践して来たそうです。
 上記対談に載っていた日野原先生の言葉から少し引用します。
 「前向きに何かを期待する気持ちがあるのなら、心が健康だということです」。私はプラス思考とも言い換えています。日野原先生は救われた後、特に印象に残っている聖書のみことばとして、「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」(コリント第一13:13)を挙げていました。信仰や希望は個人的な事柄と言えるでしょうが、愛はいわゆるギリシャ語のアガペーの愛、犠牲的な愛、人を赦す普遍的な愛で、クリスチャン生活を送って来て初めて身につく、信仰の最高の実です。非常に難しいです。例えば日野原先生は核兵器反対!とメガホンで叫ぶより、平和をもたらしましょうと呼びかける事のほうが大切だと説きます。それが愛の行動ですが、それにはその愛に基づく「ゆるし」が必要です。ほんとうの平和はそれがないと到来しません。日野原先生は現役の医師として、その愛を実践して来ました。
 「私たちは、心に希望を持ちながら、希望が少ない人に少しでも希望の灯をともすことができればと思います」。愛があれば個人的に抱いている希望を、他の人と分かち合う事が出来ます。政治的状況は人間の目からすれば絶望的です。私はブログにも書きましたが、それと正面から取り組んでいのちを縮めるような事は止め、神が最終的に平和をもたらされる(千年王国で実現)、という事に希望を置いて生きてゆきたいと思います。
 「私たち人間はいずれは『死ぬ生きもの』なのです。…死を受け入れながらも、その日が来るまで、きょうをどのように生きようかと考えるのが、深い生き方ではないでしょうか」。これが大切です。日野原先生は最期を自宅で迎え、胃ろうなどの延命措置はとらなかったそうです。それは「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある』(伝道者の書3:1−2)とあるように、その時を察知したからではないでしょうか。私としては、あと15年元気で生きて、120歳を迎えて欲しかったと、ちょっぴり残念な思いをしました。それと共にやはり人間は神の定められた時に死ぬのだ、という厳然たる事実を思い知らされました。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)という普遍的な事実です。それを知って日々を生かされて生きるのと、死なないものだと思い、享楽に更ける生活を送るのでは、大きな差が出て来ます。神に背を背け、死を考えない生き方では、ある日不治の病を宣告されると、慌てふためき、その原因になったと思われる人を呪い、これまで築き上げて来た財産や地位名誉等々の事で、思い煩う日々が続きます。これが結果的にその人のいのちを縮め、誰にも惜しまれず、一人淋しく死んでゆく事になるでしょう。
 日野原先生なら、死んでもその珠玉の言葉の数々は語り継がれてゆきますし、何よりも信仰者なら天国で再会出来るという望みが持てます。
 ♪また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについて行くからである。」(黙示14:13)♪ 私の好きなブラームスドイツ・レクイエム」の終楽章で引用された聖句です。