ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

野間宏著『顔の中の赤い月』を読んで

「さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。彼はエジプトに近づき、そこに入ろうとするとき、妻のサライに言った。『聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう』」(創世12:10〜13)。
 『戦争をよむ. 70冊の小説案内』(中川成美著)の中にあった野間宏の著作から、タイトルにある『顔の中の赤い月』を読んでみました。
 野間宏と言えば、まずは代表作の長編『真空地帯』があります。戦後生まれの私は父の書斎でその本を見つけ、高校時代に読みました。また受験で落ちた高校の友人が招待してくれて、その高校で上映した映画も観に行きました。そのせいもあって非常に暗い気分になったのを覚えています。とにかく極めて陰惨な軍隊でのいじめの場面が、これでもかこれでもかと出て来るので、戦争の悲惨さはこの本で一番よく分かりました。
 今安倍政権はその暗い戦前の時代に私たち庶民を引き戻そうといるので、もう一度戦争に関わる文学を読み、一信徒としても「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」(マタイ5:9)というささやかな努力を続けたいと願ったわけです。
 そこでまず「顔の中の赤い月」というのは、一体どんな描写なのかが知りたいと思いました。それはこの小説の最後のところに出て来ます。戦場から帰還した北山年夫は、戦争未亡人となった美貌の女堀川倉子にひそかな愛を抱いていますが、或る日彼女の白い顔の隅にほくろのような斑点を見つけ、それを凝視します。しかし実際には彼は自分の内なる斑点を想っています。「彼はじっと心の内のその斑点のある辺りをみつめた。と彼は自分の心の中の斑点が不意に大きくなり、ふくらんでくるのを認めた。それは次第に大きくなり、彼の眼の方に近づいてきた…≪ああっ。≫と彼は心の中で言った。彼は堀川倉子の白い顔の中でその斑点が次第に面積を広げるのを見た…赤い大きな丸い熱帯の月が、彼女の顔の中に昇ってきた。熱病を病んだほの黄色い兵隊達の顔が見えてきた。そして遠くのび、列をみだした部隊の姿が浮かんできた」。
 これで意味は分かりました。その兵隊たちの中に中川二等兵がいます。北山は彼をどうしたのでしょうか?
 小説の中で野間宏はこう書いています。「激烈な戦闘を前にして、人間はただ自分の力で自分の生命を守り、自分で自分の苦しみを癒し、自分の手で自分の死を見とらなければならないということを彼は知ったのだった」。
 熱帯の大きな赤い月が昇る頃、行軍による極限の疲労状態の中、北山と中川は馬の手綱を引いていますが、中川はもう限界でした。北山も同様で、この戦友に対して何も手助けが出来ません。もしそうすれば今度は自分の命が危うくなります。
 「俺はもう手を離す。もうはなす」、この坂道で中川は手綱をはなし、身体の苦しみを解放して、自らの生命をそこに埋める道を選びました。
 北山はと言えば、「ただ自分の生命を救うために戦友を見殺しにしたのであった」
 「仕方がない。仕方がないじゃないか。俺は俺の生存を守るために中川を見殺しにしたのだ。俺の生存のために。俺の生存のために。しかしそれ以外に人間の生き方はないではないか…あの時と同じ状態に置かれたならば、やはり俺は又、同じように、他の人間の生存を見殺しにする人間なのだ」。
 冒頭に掲げたように、「信仰の父」アブラハム(旧姓アブラム)も、絶対絶命エジプト王パロ(=ファラオ)を前にして、「私を殺すが、あなたは生かしておくだろう」と考え、愛する妻を妹と言わせ、王宮でよくあしらってもらい、自分のいのちを救おうとしました。妻がどうなろうとも。聖書があからさまに載せているので、これは普遍的な事柄で、誰にでも適用出来ます。
 私たちも皆戦争の中の極限状況ではそうするでしょう。私も同じです。自分の命が惜しい。
 ただ救い主イエス・キリストだけが「 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」(ヨハネ10:11)と言って、十字架で私たちの身代わりとして死なれました。しかしキリストは三日目に甦り、同じように信じる私たちも、終わりの時甦って、キリストと共に永遠に生きる事が出来ます。ただ信仰によってのみ。
 この希望があるので、戦争で深い心の傷を負い、その尾をずっと引きずっていた野間宏と違い、その傷(罪)を全て負って下さったキリストの為に、一日一日を有意義に過ごしてゆく事が出来ます。そのキリストの信徒に対する要望は、「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」(ヨハネ第一3:16)というものです。これが私に問われている厳粛な問題です。戦時でも戦後でもそうした信徒はいました。それは人々に大きな感銘を与え、語り継がれています。