ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

テニヤンの末日

ヨナタンは、自分自身のようにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ」(Ⅰサムエル18:3)。

今年は白河市出身の芥川賞受賞作家中山義秀が没後五十年という事で、白河市大信の生家近くにある中山義秀記念文学館を主体に、ゆかりのある二本松市等で様々な動きがあった。ちなみに大信は白河小峰城址から見て、かなり北の方にある。

敗戦後10年以内だったと思うが、父の書斎で『テニヤンの末日』という本を読んで、彼の名は記憶していた。

今回その節目に、図書館から『碑 テニヤンの末日』を借りて再度読んでみた。海軍報道班員として、実際南方激戦地に派遣された経験があるので、この本は戦記文学として手堅い筆致で読者を魅了すると思う。

海軍軍医将校となった浜野大尉と岡崎大尉の二人が主人公である。二人は旧制高校以来の親友で、大学で医学を修め、ほぼ同時にこのテニヤン島に遣わされた。

太平洋戦争の激戦地アッツ島サイパン島の日本軍守備隊は全滅、米軍は大挙してテニヤン島に向かう。その緊迫した状況下で二人は翻弄される。

職業軍人ではない浜野は、母親の信仰を受け継いだ敬虔なカトリック信徒で、大尉という地位にあっても、部下をひどく扱う事はなかった。岡崎も軍隊生活は浜野より先輩だったが、やはりその不合理さを嘆いていた。

「粘土のように柔軟な感受性や思考力をそなえた青年等が、軍の学校や兵営で強制的に一つの鋳型にうちこまれ、なかば器物化された均一品として作りだされてくる‥」。これは戦争の無い現代日本でも、画一化された学校教育の中で再現されている。

二人はこの戦地で再会出来たので、交友関係はますます親密さを加えた。圧倒的に不利な戦況で不安や恐怖がよぎる中、浜野は「このような幸福を与えてくれた神に感謝した」。実際中山自身晩年にガンに侵されたものの、死の前日に洗礼を受けているので、平穏に召された事だろう。

米軍の攻撃は激しさを増し、テニヤンから8キロに位置するサイパン島では、空爆や大艦隊による艦砲射撃がもろに見える。蟻のような上陸用舟艇が島に向かい上陸した。

構築した海岸砲は、今度はテニヤンに向けて撃たれ、砲弾がさく裂する。その地表は完全に一変している。次いで物凄い艦砲射撃により、浜野の部下たちも次々と戦死する。

この凄惨な描写に圧倒される。皆「生きることは不自然で死ぬのがあたりまえ」の極限に立たされる。

そうした中、盟友の岡崎が戦車砲の直撃をくらい、壮絶な戦死を遂げた。その知らせを受けた浜野は、「体内にのこって最後の力が尽きてゆくのを感じた」。「岡崎が死んだ、岡崎が死んだ」。茫然自失の浜野も、米軍戦車の砲声が雪崩のようにおしよせて」来ると、半ば意識を失いかけ、この本の最後にある「寂然とした忘我の世界が彼をつつんでいるにすぎなかった」で閉じられている。

彼はどうなったのだろうか。それが本の冒頭にあった。彼は俘虜となってテキサスの収容所に送られたのである。そこから日本に送還された。

その浜野の口を借りて、中山義秀自身がこうつぶやく。「混乱や破壊も徐々とながら水が水平にきするようにいつかあるべき姿にたちかえり、人間の凄まじい体験や恐ろしい記憶も同じようにして時日とともに遠ざかり薄れてゆく」

だから戦争体験の無い私たちも、伝え聞いたその戦争の愚かさ、おぞましさを伝え続けなければならないと思う。