ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

合唱王国福島だが

「次のことが、後の時代のために書きしるされ、新しく造られる民が主を賛美しますように」(詩102:18)。

 19年3月25日の新聞報道によると、声楽アンサンブル全国大会で、郡山五中が日本一、郡山二中と日大東北高校(郡山市)が入賞した。二位も郡山市の郡山高校だった。

 この声楽アンサンブルコンテストというのは、2名から16名までの少人数編成による合唱グループのコンテストで、全国の合唱レベルの向上を図り、歌うことの楽しさを福島から全国に発信する事を目的として、2008年から始まったそうである。部門は小中高それぞれで、そこで金賞をとった団体が、本選では部門を越えて競い合う。その結果が上記中学や高校の入賞となった。

 郡山市ばかりだが、過去には福島市などの中高生もいた。高校は概して進学校が多いようだ。

 課題曲はない。新聞報道では、郡山五中はモーツアルトのミサ曲からキリエなど5曲を歌ったという。

 ミサというのはカトリック教会専用語で、ちょっとややこしいが典礼という言葉を使う。プロテスタントやバプテストでは「礼拝」という。ミサの時主に向かって歌われるのがミサ曲である。5曲あるがラテン語を使用し、その最初の曲が「キリエ」である。意味は「主」である。続いて「エレイソン」(=憐れんでください)が来る。バッハのミサ曲ロ短調をユーチューブで聴くと、冒頭にこのキリエ・エレイソンがフォルテで出て来る。

 ではエレイソンとは何について、主である神に乞い願うのか。聖書で典型的な例がルカ伝にある。イエスが区別された2つのタイプの人が出て来る。1人は「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たち」(ルカ18:9)つまりパリサイ人、もう1人は当時の取税人、罪人と蔑まれていた者である。自分のうちに義など無い、主の御前に全く出る価値もないと自覚している者である。その人が「こんな罪人の私をあわれんでください」と祈った。

 イエスはこのパリサイ人を退け、取税人を義と認められたのである。まさにこの世の2つの区画に属する人を、生き生きと描写している。私も勿論主のあわれみを受けて救われた者に過ぎない。日々胸を叩いて、罪深い自分を赦してくださいと願うしかない、救われた罪人である。

 ところで声楽アンサンブルコンテストの審査委員長を務めた人のコメントが、28日の新聞にあった。「歌詞に込められたメッセージを理解し、曲の雰囲気に合った歌声で伝えようとしている団体をより高く評価した」。

 本当にそうだろうか。キリエ・エレイソンとは、罪人に過ぎない自分を憐れんで下さいと、目を天に向けられず身悶えしている人が、声にならない声を振り絞って出したものだ。従っておよそ賞を競うコンテストにふさわしくない、と私は考える。

 郡山五中の生徒は善悪を判断出来る。イエス・キリストを救い主として告白出来る年齢である。参加した生徒が皆そうであったとは思わない。

 とすれば「人はうわべを見るが、主は心を見る」(Ⅰサムエル16:7)が成就する。生徒の中には金賞を狙い、審査員を前に、いかに自分はうまく歌っているかを誇示しようと思った人もいたに違いない。「神よ。私は他の団体のようでなかった事を感謝します」と喜んだ人がいただろう。その生徒はまさにパリサイ人である。

 ちょっと酷な言い方になったが繰り返す。神への祈りや賛美はおよそコンテストで取り上げるにふさわしくない。「主は心を見る」、歌い手の心の状態を鋭くも厳しく見つめるからだ。

 なので課題曲は決めなくても、せめて人口に膾炙した世の曲を選んで欲しい。

 昨年私は浪江混声合唱団に加わる形で、カンタータ『土の歌』を歌った。その終曲が大地賛歌である(https://www.youtube.com/watch?v=NXuVK0frXzA)。「たたえよ、大地をあ~」。作詞の大木惇夫はクリスチャンだったそうだが、ここは大地を賛美して、クライマックスに持って行っている。

 浪江の人々を励ます主旨だったこの歌は悪くはない。こうした曲でぜひ競って欲しい。