ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

想定外を想定しない訓練

「 私たちが予想もしなかった恐ろしい事をあなたが行われるとき、あなたが降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう](イザヤ64:3)

 2019年4月13日の新聞記事によると、横浜市磯子区でトラブルの通報を受け、対応に当たった男の巡査部長(37歳)が、仲裁に入ろうとした時拳銃を奪われ、一発が発砲されたという。

 幸いにもこの発砲でけが人は出なかった。拳銃を奪った男は容疑を認めているという。プロの暴力団員でなくて良かった。その為この巡査部長の無防備ぶりが露わになった。

 どうしてそうなるのか?やはり普段からの訓練の中で、想定外を想定していなかった為と思われる。

 拳銃を所持する警察官としては、それが奪われたら凶器となる事を十分承知しているはず。だから平素の防御の訓練として、相手がこう攻撃したら、こう自分を守るというマニュアルのようなものが頭に入っているだろう。こう出たら、こうするというのは想定内だ。

 しかしこの警官はその一歩先には踏み込まなかった。想定内の枠組みでしか物事を考えなかった。

 けれども事態はそんな生易しいものではない。相手がどう攻撃してくるかは、実際にはわからない。それゆえこれまで培われて来た経験だけでなく、動物的勘がないと対処出来ない。

 人間にも動物にも生存本能があると思う(これは神学的にも、心理学的にも一筋縄で行かない、難しい問題ではある)。

 思い出すのは加賀乙彦氏の小説『宣告』である。死刑囚を題材にしたものだが、その時に至ると、従容と刑場に向かわなかった男がいる。自分が凶悪な犯罪を犯したのに、いざ自分の番となると、生存本能が働き、ロープの手前で激しく暴れ出す。刑務官は一人では対応出来ず、複数の刑務官で抑え込み、無理やりロープに吊るす。まさに動物的本能がむき出しになった場面だ。

 とにかく危機的局面で、人間がどう行動するか、完全には分からない。予測出来ない。その事を良く教えてくれたのが、内田樹と光岡英稔の対談を収めた『荒天の武学』である。光岡氏は武道家だが、極めて幅広い知識を持ち、良く知られた評論家の内田樹氏と対決して、一歩も引けをとらない。2012年の発刊だが、今なお新鮮である。

 その光岡氏によると、現代の若い人たち(上記巡査部長もそう)は、危険などに対する感覚が鈍っているそうである。「シミュレーション上で物事を解決するものだとずっと教育されてきているし、ネットの中の出来事もすべて想定内のことばかりだから、その範囲で物事を解決する。その通りやっておけば大丈夫だというような幻想が共有されています」とずばり。男が拳銃を奪いに来ても、「『法が私を守ってくれる』とか、そういう期待のレベルで身の安全が確保されると思える…」。動物的な勘が鈍っている。しかも柔道などで鍛え、少し自信を持っているからこそ、想定内で何とかなると考え、状況に合わせられないそうだ。当然拳銃は奪われるだろうし、ナイフを持っていたら、きっと刺されただろう。

 この両者がしばしば触れている原発事故についても言える。高さ15・7メートルの津波は想定外だったのか。既に裁判の過程で明らかになっているように、そういう計算をし、報告した技術者がいた。ならば今刑事裁判の被告になっている元会長、2人の副社長は、そういう事を想定内に入れて原発事故を防ぐべきだった。彼らは上記の若い人の世代ではない。 多くの修羅場をくぐってきた実績がある。当然それを怠った責任は問われるのだ。

 だが彼らは想定外だったので責任はないとうそぶく。聖書に「 ダビデは、民を数えて後、良心のとがめを感じた。そこで、ダビデは【主】に言った。『私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。【主】よ。今、あなたのしもべの咎を見のがしてください。私はほんとうに愚かなことをしました。』(Ⅱサムエル24:10)とある。

 ダビデは王として優れた能力を持っていた。しかし聖書の神、主は彼の罪をも露わにする。彼は「良心のとがめ」を感じたのだ。そしてその咎めを赦して下さいと、神に祈った。聖書に立脚している人なら、日々「良心のとがめ」を感じる。そして悔い改める。

 東電の3被告は、あくまで無罪を主張する。彼らの良心はマヒしている。国の息のかかった裁判官なら、当然無罪にするだろう。しかしいつも言う事だが、最終的には全てを知っている神が裁く。それに委ねる。

 けれども想定外を除外する典型例がこの3被告だから、今の空気が「みんなで守ろう想定内」という風潮になっている事にも、責任の一端はあるはず。ひいてはこの国を極めて脆弱なものとするに違いない。