ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

若松丈太郎氏の事

「十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちは彼に『私たちは主を見た』と言った。しかし、トマスは彼らに『私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません』と言った(ヨハネ20:24-25)。

AO153さんから教えて頂いた南相馬市原町区在住の詩人若松丈太郎氏の事だが、『福島原発難民 南相馬市・一詩人の警告 1971年~2011年』を図書館で借りて読んだ。

氏は東日本大震災よりだいぶ前から、福島原発の危険性を警告していた。解説で鈴木比佐雄という人が「福島原発がいつかチェルノブイリのようになり、南相馬市周辺にも放射能が降り注ぎ、人の住めなくなるだろうと警告していた」と言っている通りであった。

津波のあった原町の海岸から4キロほどの、原ノ町駅に近い市街地に住んでいる氏は、あの日の地震について詳しく記している。2階の書斎の本は落下し、1階の食器も散乱したが、「こんな程度で済んだことは、幸いだった」とある。だからテレビで地震津波原発の緊急停止などをすぐに知る事が出来た。原ノ町地震被災状況は私の住んでいた松戸とよく似ていた。

しかし放射能南相馬市全体には降り注がず偏在した。原発20キロ圏内の小高区の全域が警戒区域となり、圏外にあたる原町区などは緊急時避難準備区域、計画的避難区域として分割された。区域の名称はやがて頻繁に変わった。原町区から自主避難した人々の数は多かった。鹿島区に住む友人から、この線引きで全域の絆がずたずたにされた事を、早くから知らされた。

でも若松氏の本から意外な事を知った。原ノ町駅からは津波は桜井町近く、桜井古墳(高台のここと低地の周辺を見て納得)の北側、新田川沿いに浸入し、上渋佐を壊滅させていた。勿論南の下渋佐、萱浜もそうだった。若松氏はそれを直ぐには知る事がなかった。もっと北の鹿島区烏崎の漁港でとれる魚を売っていた、「烏のおばちゃん」からの一報をその日の夕刻受けて、初めて知ったそうだ。その後2週間以上経た3月29日、6号から海沿いに漁船や漂流物が放置されているのを目撃し、その凄まじさが分かったそうである。氏の関心は25キロ先の原発にあった。だから最初津波は見ないで、情報から信じたと言える。すぐ目と鼻の先の出来事だったが。写真は烏崎。

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私は今勿来でも常磐線西側の少し高いところに住んでいるが、当時住んでいたと仮定して、やはり関心は原発だから、津波が膝位の高さで6号海側の田畑を覆ってしまったという事実は、実際そこに行って目で確かめなければ分からなかったと思う。

氏は原発1号機の爆発からすぐ南相馬からの脱出を考え、3月15日、2号機・4号機の爆発と前後して、福島市への避難を敢行した。原発難民となったのだ。予測が的中した事で、氏はこう書いている。

「危惧したことが現実になったいま、わたしの腸は煮えくりかえって、収まることがないのだ。なぜなら、この事態が、天災ではなく、人災であり、企業災であるからだ」。

東電元首脳の3人は、この若松氏の怒りをどう受け止めているだろうか。