ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

スタイリスト押田比呂美への反論

 4月10日の朝日新聞にファッション・スタイリスト押田比呂美の文章が載っていました。題は「装うことは人生よ!」というもので、副題に「デビューは第一印象が大事」とありました。
 彼女の考え方はたぶんに聖書の教えと違うので、逐次反論したいと思います。
 まず第一に4月という諸々のデビューの時期、「肝心なのは、なんと言っても第一印象。見た目で悪印象を与えてしまったらもったいない」という文章です。見た目が一番、見た目で人は決まるといった考え方が、押田さんを始め多くの人々のものとなっています。
 しかし聖書ではその逆です。創造主である神は見た目=うわべではなく、心の中を探られます。
 「しかし主はサムエルに仰せられた。『彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る』」(サムエル第一16:7)。
 ですから私たちは次の事を勧められています。
 「むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです」(ペテロ第一3:4)。
 日本は不況が長引いており、格差は拡大するいっぽうで、ビンボー人は糧を得るだけでも大変です。さらに今度の東日本大震災。多くの人々が家は勿論衣服さえ入手出来ない状況です。こんな時期にこんな発言をさせる朝日も朝日ですが、押田さんは能天気の勝ち組に属する心の浅薄な人に違いありません。
 第二に自分らしさを出すという事ですが、それは個性のない紺や黒のスーツ着用から脱却する事で得られるという事です。それは間違いありませんが、日本の現状は「出る杭は打たれる」で、一人突出すると間違いないといってよいほど「いじめ」に会います。こうした人の内なる心から出て来る「悪い考え」「ねたみ」(マルコ7:21,22)等が解決出来ない以上、その現実を直視しないでただ個性、個性と言うだけでは浅はかで、均一性を要求する集団からのいじめを助長させるだけでしょう。一方キリスト教徒の場合は汚れのなさ、正しさを象徴する白服が、御国での統一された「制服」となります。勿論世にあっては、どんな服を着ようと自由です。キリストの白い衣(きよさや柔和さなど)を身にまとっている人は、いじめに会いにくいのです。
 「しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす」(黙示3:4−5)。
 第三に会社の上司は「パリッとした服装で」新人を迎えるべきだという事ですが、それも否定はしません。でも上司は見た目で判断するのではなく、新人の模範となっているかどうかが決定的に大切な問題でしょう。押田さんは上司に対してもうわべだけを言っていますが、そんな事では部下は3年で辞めてしまうでしょう。
 「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい」(テモテ第一4:12)「あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい」(ペテロ第一5:3)。
 世の中の物質的な装いが人生だなんて嘘っぱちです。キリストの義を着る事こそ最も価値ある人生の過ごし方になります!