ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

義弟(=妹の亭主)の死

また私は、天からの声がこう言うのを聞いた。「書き記せ、『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである』と。」御霊も言われる。「しかり。その人たちは、その労苦から解き放たれて安らぐことができる。彼らの行いが、彼らとともについて行くからである。(黙示14:13)

昨年暮れも押し迫った31日夜11時頃、東京の日野市に住む妹から連絡があり、亭主が呼吸困難になり、急遽入院したという。

彼は1年と少し前、食事で喉がつかえるようになり、病院で検査を受けたら、ステージ1の食道がんと分かった。しかし11時間に及ぶ手術で切り取られたがんは、手の平サイズの2倍はあったそうで、これではきっと全て切り取る事は出来なかっただろう、やがてどこかに転移するだろうと思っていた。

実際抗がん剤による治療の、確か2クール目を終えた後、新たな転移が見つかった事を医師は告げた。亭主の求めに応じて、「今年の春、桜が見られるかどうか」と言ったそうだ。自宅療養と、慶大病院に短期入院しての治療の繰り返しで、たまたま入院直前まで家に居た時は、妹とダウン症の子と3人で、今年の春までにどこか最後の旅行に行こうと計画していたそうだ。インターネットでがん末期の療法など、あらゆる情報を得ていて、ある程度覚悟はしていたのだろう。

しかしがん細胞の増殖は急激に進み、31日晩、前触れもなく突如呼吸が苦しくなり、たまたま日野市の病院が慶応病院と繋がりがあり、執刀医の紹介で入院出来た。そこまでは良かった。

でも正月で前の検査結果の引継ぎが出来ず、再度元旦に数時間検査を行った。そうしたら、既にがんは全身転移、呼吸困難は片方の肺が完全につぶれ、もう一つは水が一杯溜まっていた事が分かった。もはや抗がん剤治療は出来なくなり、緩和ケアのみとなった。医師は「いつまでもこの病院に居ていいよ」と言ったそうだが、義理の弟はそれを終末まであと僅かと悟ったようだった。

それを受けて1月2日私は妹と病院まで行き、義弟と会った。その時酸素マスクは外しており、多少食欲も出て、少し小康状態になっていた。勿論息は苦しく、私は慎重に言葉を選びながら、「どこがどう痛いのか、苦しいのか」と訊いたら、「体全体に突き刺すような激痛がある」と、やや苦しそうだったが、しっかり応答してくれたのである。看護師は痛み止めの飲み薬を渡して飲ませ、胸にも突然痛みが来ないよう貼り薬を貼る措置を施してくれた。多少とも緩和ケアが効いたように思えた。

だからその時点では、医師も看護師も妹も亭主も、桜の時期とは言わずとも、多少生き延びられると思ったし、私自身も久しぶりの邂逅、そういう感触を得ていた。

だから正月は待機状態となり、一旦家に戻ったのである。急変に備え、場所が遠いので時刻表なども調べ、準備を重ねていた。正月休みどころでなくなった。

5日は日曜なので礼拝。終えて帰宅は車で20分ほどなので、携帯は勿論見られない。家で覗いたら、何とこの日の早朝亡くなったとの事。あまりに唐突だった。

それを受けて葬儀の連絡を待ったが、7日午前と決まった。それだと駆け付けるのにちょっときついので、6日昼に出て妹の所に泊まる事にした。電車を乗り継ぎ4時過ぎ到着。詳しい顛末など聞き、私は数回しか義弟と会った事がないので、結婚してからの生活も一緒にふり返ってみた。茨城県猿島郡の農家の生まれ、努力家で勉強も出来たので、早大の法学部に入った時、村のちょっとした話題になったそうだ。

妹と結婚して生まれたのがダウン症の子。しかし義弟はこの上も無く愛し育ててくれた。それには感謝あるのみ。今わの際の時、子は分かっていたかどうか不明だが、ずっと父親の手を握っていたそうだ。妹は子の為のケアの準備もあり、その場を少し外していて、最期に間に合わなかった。

とにかく急な事で、私は福音を伝える時間がとれなかった。それは残念だったが、人が独りで死んで行く時の慰めは、冒頭の聖句にある。労苦から解き放たれ、永遠のいのちの中で、救い主と共に安らぎ、世々限りなく主を賛美する新天新地の時を、信仰と希望を抱いて、今を生きて行きたいと、この正月改めて思った。

ブログでのあいさつが出来なかったが、閲覧して下さっている皆様には、いつも心から感謝しています。今年も宜しく!